アドリアーン・ファン・デル・ウェルフ
アドリアーン・ファン・デル・ウェルフ(Adriaen van der Werff、1659年1月21日 - 1722年11月12日)はオランダの画家である。
アドリアーン・ファン・デル・ウェルフ Adriaen van der Werff | |
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自画像 | |
生誕 |
1659年1月21日 Kralingen |
死没 |
1722年11月12日 ロッテルダム |
略歴
編集現在はロッテルダムの一部となっているKralingenで製粉業者の息子に生まれた。ロッテルダムの画家、コルネリウス・ピコレット(Cornelius Picolet: 1669–1670)とエグロン・ファン・デル・ネール(1671–1676)の弟子をした後、1676年に独立した。1691年から1695年の間はロッテルダムの聖ルカ組合の組合長を務めた。1697年に当時多くのオランダの画家を雇い入れていた、プファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムの宮廷画家となり、年の半分をデュセルドルフで働き、報酬を得ることになった。1703年には貴族の地位を与えられた。ヨハン・ヴィルヘルムが1716年に亡くなるまで宮廷画家として働き、その後ロッテルダムに戻り、6年後にロッテルダムで没した。
洗練された技巧で風俗画や神話、聖書に題材をとった作品を描いた。当時最も称賛されたオランダの画家の1人になり、ヨーロッパ各地の宮廷からも仕事を依頼された。1718年に出版されたアルノルト・ホウブラーケンの画家たちの伝記『大劇場』では、オランダの画家の中で最も偉大な人物と称賛され、18世紀を通じて高い評価をえていた。
弟のピーテル・ファン・デル・ウェルフ(Pieter van der Werff: 1665-1722)が弟子であり助手を務めた。
作品
編集-
Schäferszene (1689)
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賢人を探すディオゲネス(1699)
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ジョン・チャーチル (初代マールバラ公) (1704)
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キリストの埋葬(1703)
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『アダムとイブ』(1711)
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聖家族 (1714)
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パリスの審判 (1716)
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『ノリ・メ・タンゲレ』(1719)
参考文献
編集- AA.VV., Alte Pinakothek Munich, Edition Lipp, Monaco di Baviera, 1986. ISBN 978-3-87490-701-9
- Marie-Nicolas Bouillet et Alexis Chassang (dir.), « Adrien van der Werff » dans Dictionnaire universel d’histoire et de géographie, 1878 (lire sur Wikisource)