アキハバラデパート
アキハバラデパートは、かつて東京都千代田区の秋葉原地区に存在した鉄道駅併設型の商業施設である。秋葉原駅の駅ビル内にあった。
種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
日本 東京都千代田区外神田一丁目17番15号[2] |
設立 | 1950年(昭和25年)12月25日[1][2][3] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店の運営 |
代表者 |
代表取締役会長 油谷晨介[1] 取締役社長 小沢豊[2] |
資本金 |
1000万円(設立時)[11] ↓ 7000万円(1953年(昭和28年)1月)[11] |
決算期 | 2月[12] |
主要株主 |
中山貞雄[注釈 1] 673,000株[11] 谷口三郎[注釈 4] 120,300株[11] 西村禧[注釈 5] 30,000株[11] 茂木育造[注釈 6] 27,000株[11] ↓ (初代)泰道三八[注釈 2] 807,300株[12][14][注釈 2] 小沢豊 100,100株[12][14][注釈 3] 鈴木清 22,000株[12][14] 堀光治[注釈 7] 20,100株[12][14] 日産火災海上保険 20,000株[12] 小池恵美子 20,000株[12] |
特記事項:2005年(平成17年)4月に東京圏駅ビル開発に吸収合併された[15]。 |
アキハバラデパート Akihabara Department Store[16] | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 |
〒101-0021 東京都千代田区外神田一丁目17番15号[2][17] |
座標 | 北緯35度41分53.99秒 東経139度46分20.87秒 / 北緯35.6983306度 東経139.7724639度座標: 北緯35度41分53.99秒 東経139度46分20.87秒 / 北緯35.6983306度 東経139.7724639度 |
開業日 | 1951年(昭和26年)11月15日[2] |
閉業日 | 2006年(平成18年)12月31日[18] |
施工者 | 大林組[19] |
敷地面積 | 2,022.7 m²[20] |
延床面積 | 5,981.02 m²[20] |
商業施設面積 | 4,274.02 m²[20] |
営業時間 |
10:00〜21:00(1〜3階) 10:00〜22:00(2階レストラン) 10:00〜19:30(1階実演販売) |
秋葉原ストア[14]本八幡店[12] | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 | 千葉県市川市八幡3-127[14] |
開業日 | 1958年(昭和33年)12月[12] |
商業施設面積 | 92 m²[21] |
秋葉原デパート大森ストア[22] | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 | 東京都大田区山王1-4-2[23] |
開業日 | 1961年(昭和36年)4月[12] |
商業施設面積 | 528 m²[23] |
秋葉原デパート船橋店[24] | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 | 千葉県船橋市本町3-1656[24] |
開業日 | 1961年(昭和36年)6月[25] |
商業施設面積 | 399 m²[24] |
営業時間 | 10:30-19:00[24] |
秋葉原デパート千早台店[26] | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 | 千葉県千葉市千早台1-1 千早台団地26号棟第一ストア内[26] |
歴史・概要
編集創業からすぐに経営不振
編集1950年(昭和25年)9月6日に民衆駅の開設の承認を得て[28]、同年12月25日に資本金1000万円で「株式会社 秋葉原会館」を設立し[11]、当初はホテルの開業を目指した[29]。
しかし、途中からデパートの開業へ方向転換し[29]、1951年(昭和26年)1月に大林組の施工で着工した[19]。 そして、同年11月に[19]国鉄秋葉原駅西口の高架下に[30]鉄筋コンクリート造3階建ての建物を竣工し[19]、同月15日に「秋葉原会館」を開店した[1]。 開業当初は日本国有鉄道に売上高の約1%の営業料を支払い、入居するテナント(委託業者)42名から7%から10%の営業料を得ることになっていた[31]。
また、開業時には千葉県物産即売場が開設された[32]。
開業初期には、おでん・そば・寿司・焼鳥など9店舗からなる「味の天国」やパチンコ店「コニーホール」などがあったほか、景品付きや観劇付きのセールを行うなどの特徴を持っていた[33]。
しかし、開業から約1年半を経ても日本国有鉄道に用地料・駅構内使用料を支払わず、約1500万円を滞納して問題となり[34]、不渡り手形も出すなど経営不振に陥った[35]。
債務整理から泰道グループの傘下へ
編集1953年(昭和28年)1月に資本金7000万円に増資し[11]、同年3月に中山貞雄[注釈 1]が社長に就任して債務整理を実施した[5]。 その際に、発行済み株式140万株のうち[5]中山貞雄[注釈 1]が673,000株を取得したが[11]、株式取得代金として千葉銀行から1525万円を借り入れた形式となっていた[5]。 しかし、その元利の支払いを一度も行わず、銀行側もその請求を行わなかったことから、千葉銀行が事実上取得していたと見なされた[5]。
河合良成の紹介で千葉銀行から[36](初代)泰道三八[注釈 2]が1957年(昭和32年)3月15日に当社の再建を依頼され[37]、一株12.5円で[36]この中山名義で事実上千葉銀行が保有していた株式は譲渡された[5]。 その結果、泰道三八[注釈 2]が140万株のうち807,300株を保有するようになり[12][14]、1958年(昭和33年)に(初代)泰道三八[注釈 2]が社長に就任して[8]「泰道繊維(後の泰道リビング)」の傘下に入った[3]。
その後、同年12月に本八幡駅表口前に本八幡店を開設した[12]。
こうした経緯もあり千葉銀行秋葉原支店が当店内に出店していた[38]。
1960年(昭和35年)4月に小沢豊[注釈 3]が社長に就任して[3]泰道三八[注釈 2]が会長に就任し[8]、同年に「株式会社 秋葉原デパート」に商号を変更した[3]。 1961年(昭和36年)4月に大田区の山王馬込銀座に大森店を開設し[12]、同年6月に船橋電話局前に船橋店を開設した[25]。
「ローズ·チケツト」の名称でスタンプサービスも実施していた[39]ほか、昭和30年代から100円均一店を導入してファミリー層の顧客を狙う営業展開をしていた[40]。
1964年(昭和39年)2月期に公認会計士から減価償却不足約1億777万8000円や、支払利息・賃借料と支払手形を相殺していることなどの問題を指摘された[41]。 そして、翌年度の1965年(昭和40年)2月期には公認会計士から再び減価償却不足が指摘されたほか、売上高の過大計上などの指摘も受け、決算が「適切とは認めらない」とされた[42]。
1980年(昭和55年)6月23日に(2代目)泰道三八が新自由クラブから千葉県第1区から衆議院議員に初当選した際には、当社からも選挙違反で逮捕者が出た[43]。
大規模改装とJR東日本による買収
編集2階と3階の飲食店を除く全フロアを[44]2002年(平成14年)1月26日に閉鎖した[45]。
その後、改装工事中の同年2月28日にJR東日本が買収して同社の傘下に入った[46][47]。
同年3月1日に2階に書店の「文教堂」が先行して新装開店した後、同年3月18日に3階も新装開店し、「アキデパ フジヤマ」としての営業を開始した[47][48]。 そして、3階のデパート口のすぐ横のキャンペーンゾーンに隣接して[49] 同月21日には「アキバカフェ」が開店した[50]。
しかし、同年11月に「アキバカフェ」を閉店し、同年12月にはショッピングサイトの「バーチャル アキデパ フジヤマ」を閉鎖して、再び一般客向けの商業施設へ転換を図ることになった[51]。
2003年(平成15年)2月1日に3階に「アキハバラブックセンター」が開店し、同月にマツモトキヨシが、同年3月にユニクロが開店し、「文教堂アキハバラデパート店」が撤退した2階も改装された[51]。
2005年(平成17年)4月に東京圏駅ビル開発(現・株式会社アトレ)に吸収合併されて[15]、同年10月25日にアキバセレクト館を[52]電気街口と中央改札口を結ぶ高架下の東西自由通路に[53]開設した[52]。
また、その間の同年6月には昭和通り口に飲食店が入居したアトレの新ブランド1号店「アトレヴィ秋葉原」(現・アトレ秋葉原2)が開業している[54]。
閉店からアトレ秋葉原へ
編集建物の老朽化が進んだうえ[55]、1991年(平成3年)に約69億円あった売上が2005年(平成17年)には約33億円と半分以下に減少したことから[55]、2006年(平成18年)12月31日に閉店となった[18]。なお、閉店の発表時点では「建物の今後は未定」とされており、建て替えのための閉店ではなかった[55]。
ただし、駅ビル閉店後も、秋葉原駅の電気街口と中央改札口を結ぶ東西自由通路にあるアキバセレクト館は営業を続けた[53]。
その後、当店跡の建物は改築され[広報 1]、南側に7階建て・北側に4階建ての建物を新築する形で[広報 2]増築し[広報 1]、2010年(平成22年)11月19日に「アトレ秋葉原1」が開店した[27]。
年表
編集- 1950年(昭和25年)
- 1951年(昭和26年)
- 1953年(昭和28年)
- 1957年(昭和32年)3月15日 - (初代)泰道三八[注釈 2]が当社の再建を依頼され[37]、株式を取得[36]。
- 1958年(昭和33年)
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
デパート口
編集3階の「デパート口」という改札口から直接秋葉原駅(総武線ホーム)に出入りできる[44]、国鉄の「民衆駅」の典型的な形態を踏襲していた。このデパート口は長らく委託駅員が常駐しており、山手線内の駅改札の中では自動改札機の設置が非常に遅かった。[要出典]
2006年(平成18年)12月31日の[18]アキハバラデパート閉店と共に閉鎖された[57]。 その後、2010年(平成22年)11月19日のアトレ秋葉原1の開業に合わせ、アトレ秋葉原1改札口」として再開された[57]。
アキバセレクト館
編集電気街口と中央改札口を結ぶ高架下の東西自由通路にあり[53]、2005年(平成17年)10月25日に開店した[52]。アトレ秋葉原1開業以降も引き続き営業していたが[53]、2011年(平成23年)2月28日に閉店した[56]。
エピソード
編集- キヤノンのルーツである精機光学研究所の設立者の一人である吉田五郎は、自著によれば戦後に「秋葉原デパート[注釈 8]」で外商の売掛金の集金係として晩年まで働いており、吉田は当時、神田青果市場はじめ地域の人々に慕われていたが、カメラのことは口にしなかったという[58]。
- 南側入口向いの広場には、1995年頃[59]に時計台が建てられており(冒頭写真左端)、待ち合わせスポットの一つとなっている。この時計台について歌手・声優の桃井はるこが「秋葉原の象徴的なランドマーク」として頻繁に語り、自身の楽曲の題材としても用いたことから、彼女の名字をとって俗に「モモーイ時計(桃井時計)」と呼ぶことがある[60][59][61]。この時計台は駅舎建て替え・アトレ秋葉原1へのリニューアルを経ても、そのままの場所(現在のアトレ南口近く)に現存している[59]。
脚注
編集注釈
編集- ^ a b c d e 東京朝日新聞記者を経て、「東亜拓殖株式会社」専務取締役に就任[4]。「亜細亜活動写真」・「東北鉄道鉱業」・「阪神土地住宅」・「丸の内銀行」・「奉天証券」取締役も務めた[4]。立憲政友会所属で熊本県第2区から衆議院議員に3回当選した[4]。1953年(昭和28年)3月に「秋葉原会館」社長に就任[5]。
- ^ a b c d e f g h i j 1930年(昭和5年)に独立して「泰道英佑商店」を創業[6]。 1941年(昭和16年)に「東京都布帛協同組合」統制部長に就任[7]。1942年(昭和17年)にミシン700台・従業員約1,000人の当時民間では最大の被服工場を経営するようになり[7]、1943年(昭和18年)に「第十布帛工業」を設立して社長に就任[8]。1945年(昭和20年)に「東京都布帛協同組合」理事長に就任し、1948年(昭和23年)に「全日本布帛協同組合」副理事長に就任した[7]。「東京都布帛工業協同組合」専務理事や「泰東布帛卸商組合」理事を歴任[8]。1949年(昭和24年)1月に「泰道繊維」社長に就任し[8]、1950年(昭和25年)に朝鮮戦争開始に伴って同社に特需部を開設して照光弾を製造した[7]。1952年(昭和27年)6月に[8]小松製作所と折半出資で資本金8000万円で砲弾などの製造を行う[7]「泰道化工」を設立して[9]社長に就任し[8]、1954年(昭和29年)に同社を「東洋化工」社名を変更した[9]。1952年(昭和27年)に「全繊維信用協同組合」理事長に就任した[9]。1958年(昭和33年)に「秋葉原会館」社長に就任し、同年11月に「エスエス製薬」社長に就任した[8]。1964年(昭和39年)4月に「東都信用組合」理事長に就任し、1965年(昭和40年)5月に「株式会社テルミー」会長に就任した[10]。
- ^ a b c d 1946年(昭和21年)に「第十布帛工業」に入社し、1949年(昭和24年)に「泰道繊維」取締役に就任[3]。1954年(昭和29年)に「東洋化工」取締役に就任し、1958年(昭和33年)に「秋葉原会館」取締役経理部長に就任[3]。1960年(昭和35年)4月に「秋葉原デパート」社長に就任[3]。
- ^ 当社の専務取締役を務めた[1]。
- ^ 1912年(大正元年)に神田市場で青果問屋「西吉商店」を創業[13]。1917年(大正6年)に「神田信用組合」理事に就任し、1946年(昭和21年)に同組合長に就任した[13]。1951年(昭和26年)に「神田信用金庫」理事長に就任[13]。当社の取締役にも就任していた[13]。
- ^ 当社の取締役を務めた[1]。
- ^ 当社の専務取締役を務めた[1]。
- ^ 出典ママ。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i 『日本貿易総覧』 貿易弘報社、1953年8月25日。pp17
- ^ a b c d e f 『デパート・ニューズ調査年鑑 1969年度版』 デパートニューズ社、1969年。pp270
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『全国繊維企業要覧 昭和45年版』 信用交換所大阪本社、1969年9月15日。pp10
- ^ a b c 『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』 大蔵省印刷局、1962年12月。pp355
- ^ a b c d e f g 『公正取引委員会年次報告 昭和33年度』 公正取引委員会、1960年。pp99-100
- ^ 竹下三四郎 “"昭和の信玄"泰道三八の戦略 エスエス製薬社長の僧衣の中身”. 月刊経済 1969年4月号 (月刊経済社) (1969年4月1日).pp99
- ^ a b c d e 窪田博幸 『日本の資本家 この現代を支配するもの』 新興出版社、1963年1月30日。pp88-89
- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第24版 下』 人事興信所、1968年11月。ppた111
- ^ a b c 永田久光 『ビジネスマンへの提言 成功と人生への指針』 大和書房、1963年11月30日。pp122
- ^ 『日本の礎』 共同通信社、1968年4月29日。pp608
- ^ a b c d e f g h i j k 『全国百貨店専門店会商店会取引業者総覧 昭和32年版』 デパート新聞社、1957年3月15日。pp178-179
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本繊維商社銘鑑 昭和39年版 上巻』 信用交換所大阪本社、1965年2月20日。pp151-152
- ^ a b c d 『茨城紳士録 昭和39年度版』 いばらき新聞社、1964年1月1日。pp485
- ^ a b c d e f g 『日本職員録 第8版』 人事興信所、1960年。ppあ32
- ^ a b c 旧「アキハバラデパート」改築概要が明らかに-駅ビル着工へ アキバ経済新聞、2008年2月7日
- ^ 『Tokyo,up-to-date 42の東京map』 人文社、pp39-40
- ^ 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp190
- ^ a b c d さようなら、アキハバラデパート! 秋葉原電気街の名物ビルが閉鎖…… ASCII.jp、株式会社アスキー、2007年1月1日
- ^ a b c d e f 『建築経済統計資料 1956』 日本建築学会、1956年9月5日。pp115
- ^ a b c 味岡健二 “百貨店の火災と予防”. 火災 日本火災学会誌 第7巻 第3号 (日本火災学会) (1957年11月5日).pp99
- ^ 『デパート・ニューズ調査年鑑 1970年度版』 デパートニューズ社、1970年8月15日。pp133
- ^ 『日本セルフ・サービス年鑑 1966年版』 日本セルフ・サービス協会、1965年11月10日。pp497
- ^ a b 『商業繁栄地区とその資料 東京都内23区および都下17市 東京編 1968年版』 日本マーケティング研究所、1968年1月1日。pp18
- ^ a b c d 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp174
- ^ a b c “小売商業の構造変化と零細小売商 スーパーマーケットとの関連を中心に(Ⅲ)”. 国民金融公庫調査月報 1968年3月号 (国民金融公庫) (1968年3月20日).pp32
- ^ a b 『会社総鑑 1968年版』 日本経済新聞社、1968年。pp1105
- ^ a b c d 「アトレ秋葉原1」開業-アキハバラデパート閉店から4年、46店が出店、アキバ経済新聞、2010年11月19日
- ^ a b 『デパート・ニューズ調査年鑑 1967年度版』 デパート・ニューズ社、1967年4月30日。pp104
- ^ a b 『時の人 時代を牛耳る人物点描』 週刊経済新聞社、1952年12月10日。pp124
- ^ “観光トピツク”. ホテルレビュー 1951年9月号 (日本ホテル協会) (1951年9月15日).pp24
- ^ 国鉄研究会 『国鉄にもの申す』 東洋経済新報社、1955年11月30日。pp66
- ^ 『県政概要』 千葉県、1953年9月10日。pp367
- ^ 『今日の東京なんでもわかるバイブル』 自由国民社、1953年1月10日。pp166
- ^ 塩田一将 “国鉄問題は私怨か政争かその真相をさぐる”. 実業之世界 第三・四十五周年記念号 (実業之世界社) (1953年9月1日).pp54
- ^ “経済界で拾った話”. 野田経済 廿周年記念号 (野田経済研究所) (1954年11月1日).pp76
- ^ a b c “頭脳総動員で着実に前進 エスエス製薬社長泰道三八氏”. 野田経済 1970年7月22日号 (野田経済研究所) (1976年7月22日).pp57
- ^ a b “現代の成功者 全国的にウサギ! 泰道照山”. オール大衆 1971年8月1日号 (経済通信社) (1971年8月1日).pp32
- ^ 牧岡彥太郞 “東京の銀行地図”. 新日本経済 1957年2月号 (新日本経済社) (1957年2月1日).pp61
- ^ “情報の泉”. 中小企業と組合 1963年4月号 (全国中小企業等協同組合中央会) (1963年4月1日).pp64
- ^ 大河原克行の「秋葉原百景」アキハバラデパート、撤退の意味とは? 大河原克行、Impress PC Watch、2001年12月3日
- ^ 『公認会計士法定監査意見の概要』 税務研究会出版局、1966年3月25日。pp264
- ^ 『公認会計士法定監査意見の概要』 税務研究会出版局、1966年3月25日。pp93
- ^ “往来ルポ 泰道議員の猛烈金権選挙で信用失墜したエスエス製薬の苦悩 超大型企業ぐるみで社員の逮捕者続出・大混乱”. 実業往来 1980年11月号 (実業往来社) (1980年11月).pp46-49
- ^ a b c アキハバラデパートが撤退を宣言、「アキバ系SCに生まれ変わります」、Impress PC Watch、2001年11月23日
- ^ a b アキハバラデパートの具体的な改装計画が明らかに、3月に新装開店、Impress PC Watch、2002年1月12日
- ^ 新装オープン間近に控えたアキハバラデパートをJR東日本が買収、Impress PC Watch、2002年3月2日
- ^ a b c 「JR年表」『JR気動車客車編成表 '02年版』ジェー・アール・アール、2002年7月1日、187頁。ISBN 4-88283-123-6。
- ^ a b 新名所となるか?駅前デパートが「アキデパ フジヤマ」として新装オープン、Impress PC Watch、2002年3月23日
- ^ ガンダム、鉄道模型、etc…、18日オープンに向けて作業中のアキハバラデパート フジヤマを直撃!! ASCII.jp、株式会社アスキー、2002年3月15日
- ^ a b アキデパ3F「アキバカフェ」が予定を繰り上げてオープン――気になる「アキバブレンド」「アキバオレンジ」の味は? ASCII.jp、株式会社アスキー、2002年3月21日
- ^ a b c d e f g アキハバラデパートがホビー系縮小、代替にユニクロらが出店、Impress PC Watch、2003年2月1日
- ^ a b c d 秋葉原駅東西自由通路に“アキハバラデパート アキバセレクト館”がオープン! ASCII.jp、株式会社アスキー、2005年10月25日
- ^ a b c d e アキハバラデパートが閉店を告知、一部は存続して営業、Impress PC Watch、2006年12月2日
- ^ a b 秋葉原駅の昭和通り口に飲食店ビル「アトレヴィ(atre vie)秋葉原」がオープン ASCII.jp、株式会社アスキー、2005年6月2日
- ^ a b c アキハバラデパート、55年の歴史に幕 売り上げ、ピーク時の半分以下 ITmedia、2006年12月5日
- ^ a b フォトフラッシュ 「アキバセレクト館」、閉店、アキバ経済新聞、2011年2月28日
- ^ a b 11月19日にオープンする「アトレ秋葉原1」へ潜入! ASCII.jp、株式会社アスキー、2010年11月18日
- ^ 小倉磐夫『国産カメラ開発物語』p.44。
- ^ a b c 『ラジオライフ』2021年10月号、pp.100-101。
- ^ 『シュタゲ ゼロ』コラボ時計発売記念、桃井はるこさんインタビュー アニメイトタイムズ、2018年12月13日
- ^ 秋葉原電気街振興会公式サイト「タウンガイド」の地図上にも名称の記載がある。
広報資料・プレスリリースなど一次資料
編集- ^ a b c d NDKトピックス「アトレ秋葉原1」の施工に当社が携わりました。、日本電設工業、2010年11月1日
- ^ アトレ秋葉原1、株式会社JR東日本建築設計
関連項目
編集外部リンク
編集- アトレ秋葉原-atre- - 株式会社アトレ