アダム・セジウィック
イギリスの地質学者
アダム・セジウィック(Adam Sedgwick、1785年3月22日 - 1873年1月27日)は、イギリスの地質学者・地球科学者。近代地質学の創始者のひとりである。地質年代の「デボン紀」の名称を提案し、後にウェールズの岩石の地層の調査からカンブリア紀の年代を提案した。
アダム・セジウィック | |
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Adam Sedgwick (1785 - 1873) | |
生誕 |
1785年3月22日 グレートブリテン王国、ヨークシャー州、デント |
死没 |
1873年1月27日 (満87歳没) イギリス、ケンブリッジシャー州、ケンブリッジ |
研究分野 | 地質学 |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
主な受賞歴 |
ウォラストン・メダル(1851年) コプリ・メダル(1863年) |
プロジェクト:人物伝 |
生涯
編集ヨークシャー州デントに生まれた[1]。父親は牧師である。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学んだ[2]。イギリスやヨーロッパの地質学を研究した。ロデリック・マーチソンとともに石炭紀とデボン紀よりも古い地層を研究し、カンブリア紀の地層を分類する方法を確立した。1821年に王立協会の会員に選ばれた[3]。1829年から地質学会の会長を務めた。
セジウィックは今日の観点からは、宗教的には原理主義者または福音派で、科学的研究と、自らの信仰的立場を区分していた。地質学的にも天変地異説(突発説)の立場をとり、神の創造行為を信じる立場をとった。ロバート・チェンバースが1844年に『創造の自然史の痕跡』(Vestiges of the Natural History of Creation)を匿名で出版した時、エディンバラ・レビュー誌上や、チャールズ・ライエルにあてた書簡で激しくこの本を攻撃した。
チャールズ・ダーウィンはセジウィックの地質学の生徒の一人であり、ダーウィンのビーグル号の航海の間、文通を続けた。セジウィックは進化論の考えを認めることはなかったが、意見の違いにかかわらず、2人はセジウィックの没するまで、友好的な関係を保った。
1851年にウォラストン・メダル[4]、1863年にコプリ・メダルを受賞した[3]。
出典
編集- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月13日閲覧。
- ^ "Sedgwick, Adam. (SGWK803A)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b "Sedgwick; Adam (1785 - 1873)". Record (英語). The Royal Society. 2012年4月25日閲覧。
- ^ “Wollaston Medal” (英語). The Geological Society. 2012年4月25日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集ウィキメディア・コモンズには、アダム・セジウィックに関するメディアがあります。
- “Obituary.” - Popular Science Monthly 2. April 1873.