アグスティン・ラルディ
アグスティン・ラルディ (西:Agustín Lhardy、1847年8月20日 - 1918年4月3日) は、スペインの画家、料理人、実業家。マドリードのレストラン「ラルディ」の二代目オーナーである。
アグスティン・ラルディ Agustin Lhardy | |
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ラモン・シラ画 (1890年) | |
生誕 |
Agustín Lhardy Garrigues 1847年8月20日 スペイン王国マドリード |
死没 |
1918年4月3日 (70歳没) スペイン王国マドリード |
国籍 | スペイン王国 |
著名な実績 | 絵画・スペイン料理 |
代表作 | 油彩『ピレネー山脈の風景』 |
運動・動向 | 風景画・パティシエ |
彼は絵画を学んだのち実業家として父親のエミリオ・ラルディの跡を継ぎ、自身の料理と画業を通じてマドリードの美食運動を推進。継続的な素晴らしい業績を残した。
経歴
編集アグスティン・ラルディ(本名:Agustín Lhardy Garrigues)の父親であるエミリオ・ラルディは、フランス生まれのパティシエで、スペインに定住し、1839年にマドリードでレストラン「ラルディ」を設立した[1] 。1847年、アグスティンはエミリオとその妻フアナ・ガリゲスとの間に生まれ、サン・セバスティアン教会 (マドリード)で洗礼を受け、幼少期はフランスで教育を受けた。思春期になるとスペインに戻り、画家のカルロス・デ・アエスに師事して絵画と版画を学んだ。この風景画家はアグスティンに大きな影響を与えた。
アグスティンは1874年、レアル・ファブリカ・デ・プラテリア・マルティネスの展覧会で初めて公の場に姿を見せた。以後、彼は継続的に作品を出展するほか、マドリードの雑誌「白と黒 (スペインの雑誌)」にも絵画を寄稿して知名度を上げた。20世紀になると、彼は料理人と画家としての双方からラルディを運営し、マドリードの美食運動を推進した。ガストロノミーの作家、ディオニシオ・ペレス・グティエレスは、次のような詩を寄せた。
率直でごめんなさい
画家になればなるほど
そしてもちろん、たぶん
あなたはパティシエであることがわかりました
だから絵筆を残して
そして、あなたはサービスを提供します
芸術へ、あなたの工芸品に戻ってください
あなたのケーキに、パティシエ![2]
アグスティン・ラルディは1918年4月3日、70歳で死去した。ラルディの経営は娘婿のアドルフォ・テメス・ニエト(Adolfo Temes Nieto)に引き継がれた。
絵画作品
編集脚注
編集- ^ José Altabella (1978), Lhardy. Panorama histórico de un restaurante romántico 1839–1978, Imprenta Ideal.
- ^ Dionisio Pérez (1899), Personas, personajes y personillas, cuarta serie
- ^ ハイメ・モレラ美術館蔵
- ^ パネルに油彩、プラド美術館蔵 Pinos en la costa de Asturias