アギシュムバは、紀元2世紀中葉、クラウディオス・プトレマイオスの『地理学』において、アフリカサブサハラにあると言及された土地。プトレマイオスが提示した地理座標に基づく地図を参照すると、ヌビアを除く(当時の地理概念としての)スーダンのほぼ全域がアギシュムバとされ、人の住む世界「エクメーネ」の南西端に位置する広大な領域である。

16世紀ヨーロッパで制作された地図における「アギシュムバ地方」。ステファノ・ボンシニョーリ、1589年、油彩、ヴェッキオ宮殿所蔵。

プトレマイオスによると、アギシュムバはフェザーンから南方へ4ヶ月かけて行ったところにあり、サヴァンナの大型動物が棲息し、大きな山がたくさんあるという。[1]

プトレマイオスは紀元107年から115年の間に書かれたテュロスのマリノスの地理書(現存せず)を参考にしている。マリノスにはレプティス・マグナの商人ユリウス・マテルヌスドイツ語版の旅の記録が記載されており、それによると、紀元83年から92年の間にガラマンテス族ドイツ語版の王がアギシュムバに進軍したという[2]。ガラマンテス王の軍事行動の目的は、アギシュムバの反抗的な属領に威を示し、進貢関係を再構築しようとしたものと考えられる[3]

後の歴史家は、(ガラマンテス王が出兵した)アギシュムバの位置をティベスティ山地アイル山地チャド湖近辺などに比定しようと試みたがうまくいっていない。アラブとの交易以前にもトリポリフェザーンカワール渓谷ドイツ語版チャド湖をつなぐサハラ交易が盛んであったことがわかっており、プトレマイオスの記述にも明らかであるため、この地をチャド湖東南域に比定する説が一定の説得力を持つ。

しかしながら、チャド湖近辺には高い山がなく、プトレマイオスの「名もない大きな山がたくさんある」という記述[1]にはあてはまらない。なお、さらに古い時代の歴史家によると、アギシュムバがフェニキア人の影響を受けて中央スーダン(中央アフリカ)に成立した国であることが示唆され、チャド湖東南域説をとる場合、アラビア語で書かれた地理書で「カネム王国」として言及される国の前身であると見なしうるかもしれない。[3]

脚注

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  1. ^ a b プトレマイオス『地理学』, IV.8.
  2. ^ プトレマイオス『地理学』, I.8.
  3. ^ a b Lange 2004, p. 18.

参考文献

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  • Wilhelm Tomaschek: Agisymba. In: Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft (RE). Band I,1, Stuttgart 1893, Sp. 822.
  • Desanges, Jehan, Recherches sur l'activité des méditerranéens aux confins de l'Afrique, Rom 1978 (hier: S. 197-213).
  • Huss, Werner: "Agisymba", Neuer Pauly, Bd. I, Stuttgart 1996 (Sp. 260).
  • Lange, Dierk, Ancient Kingdoms of West Africa, Dettelbach 2004 (hier: S. 280-4).
  • プトレマイオス『地理学』における言及箇所: I 6f, 7.2, 8.2, 8.5, 9.8, 10.1, 11.4f, 12.2; IV 8.5, VII 5.2

外部リンク

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