エルツェン
紋章 | 地図 (郡の位置) |
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基本情報 | |
連邦州: | ニーダーザクセン州 |
郡: | ハーメルン=ピルモント郡 |
緯度経度: | 北緯52度02分58秒 東経09度15分55秒 / 北緯52.04944度 東経9.26528度座標: 北緯52度02分58秒 東経09度15分55秒 / 北緯52.04944度 東経9.26528度 |
標高: | 海抜 173 m |
面積: | 105.26 km2 |
人口: |
10,544人(2023年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 100 人/km2 |
郵便番号: | 31855 |
市外局番: | 05154, 05158, 05262 |
ナンバープレート: | HM |
自治体コード: |
03 2 52 001 |
行政庁舎の住所: | Kirchplatz 2 31855 Aerzen |
ウェブサイト: | www.aerzen.de |
首長: | アンドレアス・ヴィットロック (Andreas Wittrock) |
郡内の位置 | |
地図 | |
エルツェン(ドイツ語: Aerzen)は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡に属すフレッケン(フレッケンとは、古くから市場の開催権など一定の自治権を認められた町、以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。同州南部に位置し、ノルトライン=ヴェストファーレン州と境を接している。
地理
編集位置
編集この市場町は、ヴェーザーベルクラント地方にあり、郡庁所在都市ハーメルンから南西約10km、バート・ピルモントから北に約7kmのフンメ渓谷に位置する。エルツェン地区の北にリュニングスベルク、南にはシーアホルツベルクおよびピルモンターベルクという山がある。東西にフンメ川が流れ、町の中心部でギーセバッハ川がフンメ川に合流する。
隣接する市町村
編集この町に隣接する市町村は、ヘッシシュ・オルデンドルフ、ハーメルン、エンマータール、バート・ピルモント、さらにノルトライン=ヴェストファーレン州のバルントルプおよびエクスタータールである。
町の構成
編集自治体としてのエルツェンは、中核地区のエルツェンの他、アホルン、デームケ、デームカーブロック、エーデンハル、エッゲ、ゲラーゼン、グリーセム、グロース・ベルケル、グルーペンハーゲン、ヘルケンドルフ、ケーニヒスフェルデ、ラーツェン、ムルトヘーペン、レーアー、ライネ、ライナーベック、ローデンベック、シェーフェルシュタイン、ゼルクセン、ヴェルデホルツの各集落からなる。
歴史
編集この市場町は、市町村再編の一環として1973年1月1日に上記の村落が合併して成立した。
元々アムト・エルツェン(ここでのアムトは村落の集合体を意味する)は、同名の領主家に由来する。1178年にエルツェン家は断絶し、その所領はエーファーシュタイン伯家のアルブレヒト3世(アルベルト3世)[2]ものとなった。14世紀中頃のエーファーシュタイン家の穀物台帳によれば、エルツェンは13の集落からなる行政管理区の中心地となっていた。ハインリヒ獅子公の失墜後、ヴェルフ家はしばらく息を潜めながら、ホーエンシュタウフェン家に対抗してエーファーシュタイン家と戦った。1260年、ヴェルフ家のアルブレヒト1世はエーファーシュタイン家の討伐を開始し、次々とエーファーシュタイン家の支配下の各城を攻略した。1283年にコンラート4世(1243年 - 1283年)はケルン大司教ジークフリートに援助を求め、エルツェンに招いた。しかしこの司教もヴェルフ家のハインリヒ1世(アルブレヒト1世の子)によるエーファーシュタイン城奪取を阻むことはできなかった。
歳月は流れて、ヴェルフ家のベルンハルト1世は攻勢を強め、エーファーシュタイン伯ヘルマン7世(1374年 - 1413年)は、自領をブラウンシュヴァイク=リューネブルク公から護るための相続契約をパーダーボルン司教およびリッペ伯と結んだ。この両相続人は、ヘルマン7世夫人イルムガルト・フォン・エーファーシュタインがエルツェン城を隠居所として保持することを認めた。この相互防衛同盟はエーファーシュタイン領継承戦争を引き起こすこととなった。その過程でヴェルフ家はリッペ領を広く蚕食した。1408年に和平条約が締結された。ヘルマン7世は、わずか4歳(あるいは2歳)の娘エリーザベトとベルンハルト1世の子オットー4世不自由公との結婚を約束し(1425年に結婚した)、エルツェンはその持参領とされた。こうしてヴェルフ家はエーファーシュタイン伯とブラウンシュヴァイク=リューネブルクとの間の関係構築に成功した。
ヴェルフ家は1433年にエルツェンを担保としてヒルデスハイム司教に供した。1508年にはこの抵当権はシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼンとハインリヒ・フォン・ハルデンベルクが所有していた。9年後、ヒルデスハイム司教はハルデンベルクとの賃借契約を更新せず、これによりエルツェンは両占有者間の争いの場となった。ミュンヒハウゼンは逃走したのだが、ヒルデスハイムを目前にハインリヒ・フォン・ハルデンベルクによって殺害された。その死によりヒルデスハイム司教領のフェーデはより深刻なものとなった。1553年、カレンベルク=ゲッティンゲン侯エーリヒ公はヒルデスハイム司教からアムト・エルツェンを取り上げ、4階建ての政庁を建設した。
殺害されたシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼンの末子で傭兵隊長のヒルマー・フォン・ミュンヒハウゼン(1512年 - 1573年)は1573年までエルツェンを担保として占有した。ヒルマーは、当時最も裕福だった人物の一人で、1561年に政庁に長さ 50 m、高さ 16 m の十分の一税倉庫を建設した。この倉庫は1980年にクロッペンブルク博物館村に復元された。また、1570年にはハーメルンの建築家コルト・テニスにシュヴェッバーに三翼構造の城館を建設するよう依頼した。1593年、ハインリヒ・ユリウス公は館とアムトをヒルマー(上記ヒルマーの子)に相続させた。ヒルマー(子)は1617年にシュヴェッバーで亡くなり、エルツェンのマリエン教会に葬られた。
その息子のベリースは抵当権を継承したが、1630年にヒルデスハイム司教の勢力が彼を武力によって駆逐した。スウェーデン王グスタフ・アドルフがドイツに上陸し、復旧勅令が取り消された後にベリースはこの担保領の奪回に成功した。1642年に2度目の打撃が彼を襲った。ヴァイマール騎兵がこの町に火をかけると脅迫してきたのである。ベリースは、金の鎖1本を残して全財産を失った。古い館の銘には、この夜66軒の家屋、城館、学校、多くの納屋や倉が焼失したと記されている。1660年にミュンヒハウゼン家は160年以上に及んだエルツェンの抵当権を永久に失った。政庁は国有財産となった。官僚や書記達は引き続き19世紀半ばまで行政・司法を司っていた。1823年にアムト・エルツェンは解体されたが、区裁判所(アムト裁判所)の管区として1854年に再建されたが、1858年には再び廃止された。1864年、アドルフ・マイヤーが Aerzener Maschinenfabrik を設立した。この会社は1907年からGmbH(有限会社に相当する)を称号とし、ロータリー機械製品や後にはディーゼルエンジンの過給器を生産した。
行政
編集議会
編集エルツェンの町議会は28議席からなる。
首長
編集2019年1月1日からアンドレアス・ヴィットロック (SDP) が町長を務めている。
文化と見所
編集建築
編集スポーツ
編集2006年FIFAワールドカップ・ドイツ大会の際、シュヴェッバー城のエルツェン・ミュンヒハウゼン城館ホテルにフランス代表チームが滞在した。滞在は6月8日からで、7月8日にチームは決勝戦に向けて旅立った(7月9日の決勝戦の後は直接フランスに帰国した)。公開トレーニングはハーメルンのヴェーザーベルクラントシュターディオンやエルツェンのファイヒェンベルクシュターディオンで行われ、報道センターがハーメルンのラッテンフェンガーハレに設けられた。
この町には、サッカー、バレーボール、柔道の他ファウストボールの種目を有するスポーツクラブMTSVエルツェン04をはじめ、多くのスポーツクラブがある。また、1972年に独立したハンドボールクラブとして設立されたハントバルフロインデン・エルツェンe.V.や騎馬クラブ「ザンクト・ゲオルク」1949 e.V.が多彩なスポーツ活動の機会を提供している。
経済と社会資本
編集ライフライン
編集電力、ガス
編集2002年6月からE.ONヴェストファーレン・ヴェーザーAGがこの町の電力供給を担っている。ガス供給も同じくE.ONヴェストファーレン・ヴェーザーAGが担当している。
上水道
編集1956年からエルツェンには、ヴュルムザー・ヴェクにある高架貯水槽を含む上水道網が整備されている。上水道流域は水利保護地区としてパトロールなどの保護が行われている。
上水道の運営は自治体が行っている。
交通
編集道路
編集エルツェンは連邦道B1号線に面している。現在この町を迂回するバイパス道路の建設工事が行われている。完成は2012年3月の予定である。
鉄道
編集エルツェンは1980年まで旅客鉄道ラーガー・バーンによってハーメルンおよびビーレフェルト方面と結ばれていた。この路線を通る貨物鉄道も1994年に廃止され、この路線は撤去された。
地元企業
編集この地域最大の雇用主の一つが Aerzener Maschinenfabrik GmbH である。この会社は、スクリュー圧縮機、ローターリー式送風機、ガスメーターの世界的なリーダーカンパニーである。
世界規模で駆動技術・オートメーション技術の製品を生産している Lenze AG は本社をグロース・ベルケルに置いている。
この他に、Aerzener Landbrot GmbH もある。
参考文献
編集- Heinz Georg Armgardt: Aerzen im Wandel der Zeit - Band 1-3. Geiger-Verlag Horb a.N. 1985
- Horst-Rüdiger Marten: Die Entwicklung der Kulturlandschadt im alten Amt Aerzen des Landkreises Hameln-Pyrmont. Verlag Erich Goltze KG, Göttingen 1969
これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。