アウグスト・フォン・ランベルク
アウグスト・フォン・ランベルク(August Freiherr von Ramberg、1866年12月19日 - 1947年4月1日)はオーストリアの海軍士官、海洋画家である。
アウグスト・フォン・ランベルク August von Ramberg | |
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ランベルク作「1915年のパラグルジャ島攻撃」 | |
生誕 |
1866年12月19日 オーストリア帝国、Wessely an der March |
死没 |
1947年4月1日 オーストリア、グムンデン |
著名な実績 | 海洋画家 |
略歴
編集現在のチェコのヴェセリー・ナト・モラヴォウ(Veselí nad Moravou:ドイツ語名、 Wessely an der March)で生まれた。祖父はハノーファー出身のオーストリア陸軍の軍人、ゲオルグ・ハインリヒ・フォン・ランベルク(Georg Heinrich von Ramberg)で、叔父にミュンヘン美術院の教授などを務めた画家のアルトゥール・ランベルクやオーストリア軍の将軍になったヘルマン・フォン・ランベルクがいる。
若い頃から絵を描くことが好きだったが、現在のクロアチアのリエカにあったオーストリア=ハンガリー帝国海軍の士官学校で学び、帝国海軍の軍人になった。1885年から1886年にはコルベット艦、"Danube"の南米、北米の航海に参加した。1890年に水雷、機雷のコースを卒業し、しばらく水雷艇の指揮官をした後、大型艦の航海士に転じた。オーストリアの皇太子エスターライヒ=エステ大公が乗船して、1892年から行われた巡洋艦、”Empress Elisabeth”による世界一周航海にも参加した。
1904年に病気のため、休職し独学で海洋画を学んだ。第一次世界大戦が始まり、帝国海軍の公式画家となり、第一次世界大戦のオーストリア=ハンガリー帝国海軍の戦闘場面などを描いた。敗戦により1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体され帝国海軍が消滅した後は、グムンデンに住んだ。
展覧会などに出展することは少なかったが1928年にザルツカンマーグートの芸術家協会(Künstlergilde Salzkammergut)の初代会長を務めた[1]。
作品
編集-
アドリア海を戦艦フィリブス・ウニティスを先頭に進むオーストリア艦隊 (1913)
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アンコーナ砲撃 (1915)
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帆船とボート(1932)