さよならのあとで
「さよならのあとで」はジャッキー吉川とブルー・コメッツの楽曲である。
「さよならのあとで」 | ||||
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ジャッキー吉川とブルー・コメッツ の シングル | ||||
初出アルバム『ベスト・オブ・ブルー・コメッツ』 | ||||
B面 | 小さな秘密 | |||
リリース | ||||
規格 | シングルレコード | |||
ジャンル | 歌謡曲 | |||
時間 | ||||
レーベル | 日本コロムビア | |||
作詞・作曲 |
作詞:橋本淳 作曲・編曲:筒美京平 | |||
チャート最高順位 | ||||
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ジャッキー吉川とブルー・コメッツ シングル 年表 | ||||
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1968年10月に、コロムビアの洋楽レーベル『L盤』より発売された。ブルー・コメッツが「脱GS宣言」を行った後の初のシングル盤。橋本淳作詞、筒美京平作曲・編曲。
解説
編集一番若い三原綱木をメインボーカルに据え、それに井上忠夫のボーカルが絡む形になっている。井上は曲の最後にセリフも入れている。
オリコンのヒットチャートで最高で3位を記録、当時レコードの売れ行きが鈍っていた同グループにとって久しぶりのヒット作となった。
後年のグループ・サウンズ史においては『GS歌謡曲化の尖兵』と位置付けられ、ある種の「戦犯」のような扱いを受けることも少なくない。「問題の曲」「これ(本作)以降ブルコメをGSとして紹介するのが忍びない」などと、なかには糾弾するかのような言い方[1]もある。
この路線転向に関して、後年ブルー・コメッツの元メンバー[誰?]は「ブルー・コメッツはGSばかりにカテゴライズされるものではない。エレキサウンドが流行った頃は『エレキバンド』と言われ、その前にフォークが流行った頃は『フォークグループ』と言われてきた。時代によって呼ばれ方や捉え方が違っていたのだから」と語っている。
なおこの作品より、日本コロムビアからCBSレーベルが離脱(正確には1967年6月末を以っての米コロムビアとの提携終了、ならびに1968年6月末をもっての原盤契約終了)したため、「(洋楽レーベルとしての)COLUMBIA」(L盤)の日本ローカル盤からのリリースとなった[2]。
本作は中身こそ歌謡曲だが、レコードの分類上はポピュラーソングに属する形のため、当時のコロムビアのラジオ番組「L盤アワー」では、「サイモン・セッズ(Simon Says)」や「グリーン・タンブリン(Green Tambourine)」といったコロムビアから発売された洋楽と並んで、本作「さよならのあとで」が紹介されていた[3]。
収録曲
編集※両曲とも作詞:橋本淳/編曲:筒美京平
# | タイトル | 作曲 | 時間 |
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1. | 「さよならのあとで」 | 筒美京平 | |
2. | 「小さな秘密」 | 高橋健二 | |
合計時間: |
収録アルバム
編集- ベスト・オブ・ブルー・コメッツ (#1)
- スター・ダブル・デラックス / ジャッキー吉川とブルー・コメッツ (#1)
- ゴールデン・スター・ワイド・デラックス / ジャッキー吉川とブルー・コメッツ (#1)
- ジャッキー吉川とブルー・コメッツ・ベスト (#1)
- THE TALES OF BLUE COMETS PAST MASTERS 1965 - 1972 (#1)
- THE TALES OF BLUE COMETS PAST MASTERS BOX 1965 - 1972 (#1、#2)
- ジャッキー吉川とブルー・コメッツ ゴールデン☆ベスト (DISC-1・#19)
カバー
編集コラボレーション
編集- 三原綱木と杉真里によるデュエット・シングル。
脚注
編集- ^ こういった表現は、GS研究家として活動していた黒沢進の著作(徳間書店・刊『熱狂!GS図鑑』など)に多くみられた。
- ^ 1968年7月にCBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント(SMEJ))が業務を開始した際、同社は米コロムビアと日本コロムビアの原盤契約を根拠に、当時のCBSレーベルに所属した邦人アーティストが、全員自動的にCBS・ソニーに所属すると公表した。しかしその後、改めて原盤契約の条項の是非が問題となり、その結果、ヴィレッジ・シンガーズや伊東きよ子などのCBSレーベルの邦人アーティストは、そのままCBS・ソニーレコードに移籍した。ただしブルー・コメッツは、一旦CBS・ソニーレコードに形だけ籍を置いたものの、その満了後改めて日本コロムビアと原盤供給契約を締結、事実上日本コロムビアに残留した。
- ^ 「L盤」の歌謡曲は、他に高倉健「望郷子守唄」、いしだあゆみ「太陽は泣いている」「ブルー・ライト・ヨコハマ」等がある。