麻田 𤝗賦(あさだ の かりふ、生没年不詳)は、奈良時代の官人。姓は連。百済系渡来人の大山下・答㶱春初の後裔。官位は外従五位下・山背介。
桓武朝初頭の延暦3年(784年)外従五位下に叙せられる。延暦4年(785年)7月に左大史に任ぜられるが、11月には典薬頭に遷る。𤝗賦は医業の者ではなかったことから、単なる事務官として務めたか[1]。延暦7年(788年)右京亮に任ぜられ、翌延暦8年(789年)山背介として地方官に転じている。
『続日本紀』による。