藤原 顕信(ふじわらの あきのぶ)は、平安時代中期の貴族藤原北家摂政太政大臣藤原道長の三男。官位従四位上右馬頭

 
藤原顕信
時代 平安時代中期
生誕 正暦5年(994年
死没 万寿4年5月14日1027年6月20日
改名 顕信→長禅(法名)
別名 馬頭入道
官位 従四位上右馬頭
主君 一条天皇三条天皇
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原道長、母:高松殿
兄弟 彰子頼通頼宗妍子顕信能信教通寛子威子尊子長家嬉子長信
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経歴 編集

幼名は苔君。寛弘元年(1004年)同母兄の厳君(藤原頼宗)とともに元服。加冠は権大納言藤原実資で、理髪は右中弁藤原朝経。また、同時に従五位上直叙されたか。

寛弘2年(1005年侍従に任官し、翌寛弘3年(1006年左兵衛佐を兼ねる。寛弘6年(1009年従四位下、寛弘7年(1010年)従四位上と昇進し、寛弘8年(1011年)10月に右馬頭に任ぜられている。同年12月に三条天皇から左大臣藤原道長に対して、藤原通任参議昇進で空席となっていた蔵人頭に顕信を補任させる旨の打診がなされるが、道長は辞退してしまった[1]

翌寛弘9年(1012年)正月に顕信は世を儚み行願寺(革堂)の行円の許を訪ねると、その教えに感銘を受けてそのまま剃髪し、比叡山無動寺に出家した。法名は長禅馬頭入道とも呼ばれた。顕信の将来に期待していた両親は、大いに嘆き悲しんだと言われる[2]

その後、無動寺から大原に移って仏道修行に励んでいた[3]。しかし、万寿4年(1027年)余命短い事を悟って延暦寺の根本本堂に2週間籠った後に、5月14日に無動寺にて病死したという[4]。享年34。

出家の理由について 編集

顕信の出家の2ヶ月前にあった事件がその一因であったとの説がある。寛弘8年(1011年)12月15日に藤原伊周の子道雅と道長の次男頼宗(高松三位中将)及びその舎弟が、派遣先の北野の斎場にて他人の悪口を言い合っていた(『小右記』)。『小右記』では頼宗の弟が誰であるかは明らかにはされていないものの、状況的に道雅・頼宗と居合わせられる弟は顕信以外にはいなかったと考えられる[5]。その4日後の19日に三条天皇から道長に対して藤原通任参議昇進で空席となった蔵人頭に顕信を就ける意志を告げられたが、道長が顕信は「不足職之者」で「衆人之謗」を招くとして辞退を申し出ている[1]。道長が辞退した理由は15日の一件と考えられているが、同時に天皇の前で父親から「不足職之者」と評された顕信は、自己の将来に対する不安を抱えていたことが突然の出家に繋がったというものである[6]

官歴 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 『権記』寛弘8年12月19日条
  2. ^ 大鏡』第五巻,太政大臣道長。『栄花物語』巻第十,ひかげのかづら
  3. ^ 御堂関白記』長和3年8月9日条
  4. ^ 『栄花物語』巻第二十九,たまのかざり
  5. ^ 頼宗の舎弟(同母弟)のうち、能信蔵人として宮中に詰めており、長家元服前であった。
  6. ^ 関口力『摂関時代文化史研究』(思文閣出版、2007年) ISBN 978-4-7842-1344-3 P35-42
  7. ^ a b c 『権記』
  8. ^ a b c 『小右記』
  9. ^ a b 『御堂関白記』
  10. ^ 『小記目録』

顕信が登場する作品 編集