脇坂 安清(わきさか やすずみ)は、江戸時代中期の大名播磨国龍野藩の第3代藩主。龍野藩脇坂家5代。官位従五位下淡路守

 
脇坂安清
時代 江戸時代中期
生誕 貞享2年8月6日1685年9月4日
死没 享保7年2月9日1722年3月25日
別名 主殿(通称)
戒名 寛恭院殿
墓所 東京都中野区上高田青原寺
京都府京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺隣花院
官位 従五位下伊勢守淡路守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家宣家継吉宗
播磨龍野藩
氏族 脇坂氏
父母 脇坂安照岡部直好の娘
兄弟 安清、安次郎、久留島通用安利本多重貞照武
正室秋月種政の娘・カメ
側室:貞性院、慈性院
安貞、清次郎、安興甘露寺規長継室、内藤政里正室、女子
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生涯 編集

貞享2年(1685年)8月6日、第2代藩主・脇坂安照の長男として江戸で誕生。元禄11年(1698年)9月28日、5代将軍徳川綱吉に拝謁し、元禄12年(1699年)12月に従五位下伊勢守に叙任し、宝永6年(1709年)11月13日の父の隠居により跡を継いだ。その際、脇坂家が代々名乗っている淡路守への変更を願い出て、伊勢守から淡路守に改めた。また、弟・安利に2000石を分与したため、龍野藩は5万3000石から5万1000石となった。

正徳元年(1711年)、朝鮮通信使東海道三嶋駅にて饗応した。正徳4年(1714年)4月には、勅使饗応役として伏見宮貞建親王の馳走職を担った。

享保7年(1722年)2月9日、父に先立って死去。享年38。跡を3男・安興が継いだ。

系譜 編集