紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)は、江戸時代幕府江戸城内の紅葉山に設けていた文庫(現代における図書館)。

紅葉山文庫が入る蔵列(『江戸図屏風』)

旧蔵書の大部分は明治政府に引き継がれて内閣文庫の一部となり、現在は一般公開されている。

概要

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将軍のための政務・故実・教養の参考図書を用意すべく、江戸時代初期から設けられていたもので、その膨大な蔵書の蒐集・管理・補修・貸借および鑑定などは、若年寄配下の書物奉行が行った。将軍の利用を基本としたが、それだけでなく老中・若年寄はじめ幕府の諸奉行、学者、旗本、および一部のへも貸し出しを許可された(ただし書物奉行に申請する必要があった)。

なお、「紅葉山文庫」の名称は明治時代以降に用いられているもので、江戸時代には単に「御文庫」(ごぶんこ)と呼ばれたり、雅称として「楓山文庫」「楓山秘閣」[注釈 1]などが用いられた[1][2][注釈 2]

歴史

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富士見亭御文庫

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江戸幕府成立以前の慶長7年(1602年)、徳川家康は江戸城本丸の南端にあった富士見の亭に文庫を建て、金沢文庫などの蔵書を収めさせた。また、慶長12年(1607年)に駿府城へ隠居した際は、蔵書の一部を持参して同城内にも文庫を設けている。

好学な性格であった家康は、古今の漢籍・和書を蒐集して書写や出版(伏見版駿河版など)を行わせていたが[5]、慶長19年(1614年)に駿府の蔵書のうち30部を江戸城の将軍・秀忠に贈った[注釈 3]元和2年(1616年)に家康が死去した際、江戸や駿府の蔵書は遺言に基づき将軍家尾張家駿府家(のち紀州家)御三家に分配されたが、「日本の旧記及び希世の書冊は江戸へ献ずべし」との家康の遺志により、重要な書籍50部が選ばれ、以前の書物と合わせて富士見亭御文庫に収められた。これらを特に「駿河御文庫本」などと呼ぶ。

紅葉山への移設および増設

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寛永10年(1633年)、富士見亭御文庫に書物奉行を設置し、蔵書の整理・保管や目録の編纂などを司らせることとした。同16年(1639年)7月、具足蔵(武器庫)とともに歴代将軍の霊廟があった江戸城内の紅葉山廟の隣に移された。翌年には会所・書庫各一棟が完成している。

宝永7年(1710年)6月には狭隘となった書物蔵を改築、翌正徳元年(1711年)には一棟を追加し、東西の書物蔵が揃う。

正徳3年(1713年)には前年に没した6代将軍・家宣が所蔵していた書籍が収められ(桜田御本)、さらに一棟追加されて「新御蔵」と呼ばれる。書物蔵は合計3棟となった。

吉宗による充実

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8代将軍・吉宗は、就任後さっそく享保元年(1716年)6月に儒者林家に命じて書籍目録を提出させ、常に座右に置いて頻繁に文庫から書を借りたという。また、吉宗時代には寺社奉行配下の青木昆陽による徳川家旧領の家蔵文書収集など、諸国に命じて集めさせた各地の古文書や、長崎奉行に命じて輸入させた新刊の漢籍(地方志・医書・随筆・詩文集)、さらに初に隆盛した戯曲通俗小説なども広く求め、収蔵させた。これら初版本は中国文学史研究、とくに『水滸伝』『西遊記』などの小説成立史の基本史料として、保存状態の良さと相まって現在に至るまで珍重されている。

その後

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文政11年(1828年)6月に豊後佐伯藩主・毛利高標が、8万冊に及ぶ自身の蔵書の中から2万冊もの書籍を献上した。これを収納するための新書庫が天保元年(1830年)12月に竣工し、書物蔵は4棟となった。

幕末慶応2年(1866年)に書物奉行が廃止され、配下の書物方同心が昌平坂学問所に異動すると、紅葉山文庫は書庫と蔵書だけを残して、明治維新を迎えることになる。

維新後は、管轄する官署の度重なる変遷[注釈 4]明治6年(1873年)の皇居の火災[注釈 5]を経て、明治17年に太政官の管轄になって宮城内の書庫に保存され、のちに内閣文庫に継承された。昭和46年(1971年)、国立公文書館の設置にともない、他の内閣文庫本とともに移管、一般公開された。

蔵書

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蔵書は、家康の命で蒐集・書写された書物を基礎として、幕府が御書物師(文庫出入りの書店)を介して購入した図書や献上された官撰書(『本朝通鑑』『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』など)、また諸藩の大名や林家からの献上本などにより構成された。特に文政11年(1828年)には、豊後佐伯藩主・毛利高標が2万冊もの書籍を献上している(前述)。

蔵書数は時期によって異なるが、幕末の元治年間に編纂された『元治増補御書籍目録』によれば11万3千950点[注釈 6]で、うち65%が漢籍であったという。

なお、蔵書に蔵書印の類は一切使用されなかったといわれる[注釈 7]

書物奉行による徹底管理

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歴代の書物奉行には深見有隣高橋景保近藤重蔵林復斎らの学者も名を連ねており、文庫の貸借・管理のみならず、蔵書の鑑定・蒐集・目録の編纂などを行っていた。

保守作業として、天候や湿度に注意しつつ蔵書や資料を日光や風にさらす曝書(虫干し)が、毎年晩夏から秋にかけての数か月間大規模に行われた。また、蔵書は本箱に収められて保管され、破損した書籍の補修もしばしば行われた。このような徹底した管理が行われたため、蔵書の保存状態は極めて良好で、発刊当時の書物の雰囲気がそのまま保存された。

これら書物奉行らの実務の記録は、『御書物方日記』として残されている[注釈 8]令和5年(2023年)年現在、宝永3年(1706年)から安政4年(1857年)までの152年間分の記録・225冊が伝わっており[注釈 9]、一部が『大日本近世史料 幕府書物方日記』として刊行されている。また文庫内の蔵書の変遷については、その伝来・由緒とともに『御書籍来歴志』に記されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「楓山」(ふうざん)は「紅葉山」の別称。
  2. ^ 石井研堂によると、「山里文庫」とも呼ばれたとされる。
    千代田文庫
    千代田文庫は、皇城和田倉門内に在り。もと、城内山里にあり、山里文庫といへり。明治十七年、皇居御造営の地に当り、今の処に移り、其名を改む。常に多くの図書を蔵置し、内閣記録課之を管理し、諸官衙の請求に応じて貸与す。 — 石井研堂、『増補改訂明治事物起原』上巻 第七編・教育部(原文は旧字体)[3]
    一方、福井保は、「山里文庫」は幕末に江戸城西の丸に設けた幕府の記録類を収蔵する書庫を指す、としている[4]
  3. ^ 江戸への移管後は他の蔵書と混在し、寛政10年(1798年)に林述斎が当時の移管目録を再発見するまで、永らく存在を忘れられていた。目録再発見に伴う所蔵調査の結果、22部が現存することが判明し、文化14年(1817年)には「駿府御譲本」(すんぷおゆずりぼん)と命名されて貴重書扱いとなった[6]。これらは、明治24年(1891年)に宮内省に移管され、現在は宮内庁書陵部の所蔵となっている。
  4. ^ 大学(明治2年)→大史局(同3年)→太政官正院式部寮(同4年)→太政官正院歴史課(同5年)→修史局(同8年)→修史館(同10年)。
  5. ^ この火災により、太政官や宮内省に貸出していた蔵書5,221冊、45箱、28帖、35軸、23枚、2本が焼失した。その中には、伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図『大日本沿海輿地全図』(伊能図)の原本や、江戸時代後期に編纂された地誌『新編会津風土記』『新編相模国風土記稿』の原本などが含まれている。
  6. ^ 内訳は、107,976冊、4,658帖、311軸、706張、299通。
  7. ^ 国立公文書館や宮内庁書陵部に現存する紅葉山文庫旧蔵書には、「秘閣図書之章」(大小2種)「紅葉山文庫印」「楓山蔵書」の蔵書印が捺されているものがあるが、これらは明治時代以降に押印されたものである。明らかに旧蔵書であっても蔵書印が捺されていないものや、明治時代以後の出版物で前記の印が捺されているものも存在する[2][7]
  8. ^ 当初(少なくとも、現存最古である宝永3年(1706年4月 - 正徳3年(1713年)正月分の時点)は『(御書物方)留牒』と呼ばれ、必要に応じて記録を書き留める形式であったが、享保20年(1735年)正月から原則として毎日記録されるようになり、単なる業務事項の備忘録から業務日誌へと性格を変えていく。そして同年3月27日条には、同日から記録の外題を「日記」と改める旨の記述が見られる[8]
  9. ^ 内訳は、『(御書物方)留牒』が16冊、『御書物方日記』が209冊。なお、幕末を中心に欠落している部分が複数存在するため、完全に網羅されているわけではない[9]

出典

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  1. ^ 福井 1980, p. 4-5.
  2. ^ a b 長澤 2012, p. 5.
  3. ^ 石井研堂『増補改訂明治事物起原(復刻版)』 上巻、春陽堂書店 , 国書刊行会(発売)、1996年、540頁。ISBN 4394901480 
  4. ^ 福井 1980, p. 58.
  5. ^ 『日本書紀の誕生: 編纂と受容の歴史』(八木書店) - 編集:遠藤 慶太,河内 春人,関根 淳,細井 浩志 - 河内 春人による本文抜粋”. ALL REVIEWS (2020年11月18日). 2021年1月3日閲覧。
  6. ^ 福井 1980, p. 33-36.
  7. ^ 福井 1980, p. 132-133.
  8. ^ 松田 2018, p. 22-26.
  9. ^ 松田 2018, p. 30.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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