等覚寺 (長野県南木曽町)
長野県木曽郡南木曽町にある曹洞宗の寺院
等覚寺(とうがくじ)は、長野県木曽郡南木曽町読書にある曹洞宗の寺院。木曽西国三十三ヶ所観音霊場二十七番。
等覚寺 | |
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所在地 | 長野県木曽郡南木曽町読書3857 |
位置 | 北緯35度36分25秒 東経137度36分48秒 / 北緯35.60703度 東経137.61344度座標: 北緯35度36分25秒 東経137度36分48秒 / 北緯35.60703度 東経137.61344度 |
山号 | 日星山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦牟尼仏 |
創建年 | 天正年間 |
中興年 | 明暦2年(1656年)または 承応2年(1653年) |
中興 | 鉄心道印または実参禅接 |
札所等 | 木曽西国三十三ヶ所観音霊場二十七番 |
文化財 |
韋駄天像(町指定文化財) 天神像(町指定文化財) 弁財天像(町指定文化財) 十五童子像(町指定文化財) |
法人番号 | 9100005007600 |
沿革 編集
等覚寺にある「由緒板書」によると、三河国全久院の末寺で、天正年間に大雲が現在地へ移し曹洞宗に改めたとあり、元来は臨済宗だったと考えられる[1]。
四世の葉山の代であった寛永年間(1624年~1644年)の某年7月17日、火災により寺域を全焼して一切の古文書を失なったたために、開山・開基については不明となっている。
寺が焼失後も五世の超外、六世の徳岩林堯(明暦3年に遷化)と続いたが、おそらくは仮住であったのではないかと思われる。
寺伝によれば、明暦2年(1656年)、加賀藩主の前田利常に請われて天徳院の住持となっていた鉄心道印によって再興(中興)開山されたと伝わるが、明治15年に記述された西筑摩郡寺院明細帳[2]によると、承応2年(1653年)10月、鉄心道印の弟子の実参禅接によって再興(中興)開山されたと記されている。
貞享2年(1685年)、中興後の四世の龍峯の代に梵鐘が造られた。
貞享3年(1686年)6月に円空が訪れて、天神像を、8月に弁財天像と十五童子像等を造顕した[3][4]。
等覚寺の山号と寺号の額は、鉄心道印の縁によって、時の名僧であった加賀大乗寺二十六世の月舟宗胡が、四世の龍峯の代に揮毫した字を基に、七世の恒潭の代に額にしたものである。
文化財 編集
交通手段 編集
脚注 編集
- ^ 『木曽考続貂』
- ^ 長野県庁文書
- ^ a b 長谷川公茂『円空仏』23頁(保育社,1982)
- ^ 聖観音像(円空仏) - 南木曽町
- ^ 韋駄天像(円空仏) - 南木曽町
- ^ 天神像(円空仏) - 南木曽町
- ^ 弁財天十五童子像(円空仏) - 南木曽町
参考文献 編集
外部リンク 編集
- 南木曽町文化財一覧
- 南木曽町観光協会ホームページ 等覚寺
- 木曽路を行こう。 - 国土交通省中部地方整備局飯田国道事務所