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[[ファイル:平田神社神代文字御朱印.jpg|サムネイル|[[平田神社 (渋谷区)|平田神社]]の御朱印。神代文字([[阿比留草文字]])で「[[神道|かむながら]]」と書かれている。]]
'''神代文字'''(じんだいもじ、かみよもじ)は、[[漢字]]伝来以前に存在したとみなされる、[[日本語]]を表記する固有の文字のことである。
通説において、日本には漢字以前に書記体系は存在せず、日本独自の文字である仮名文字があらわれるのは[[9世紀]]から[[10世紀]]のことである。上古の日本になんらかの文字体系があったとする説はすでに[[鎌倉期]]より、[[卜部兼方]]などにより提唱されていたものの、神代文字に関する議論が特に盛んになったのは近世のことである。この時代、多くの神代文字が「発見」され、[[平田篤胤]]ら神道家によって盛んにその実在が主張されるようになった。一方で、こうした文字の存在を疑う声は当時からすでに大きかった。
近代に入ると神道系新宗教によって盛んに神代文字により書かれた古史古伝の存在が喧伝され、こうした文書は政官界にすら強い影響を与えることがあった。とはいえ国語学者はおおむね神代文字に対して否定的であり、戦後におこなわれた[[山田孝雄]]による神代文字否定論をもって、神代文字研究にはとりまずの終止符が打たれた。
山田以来、神代文字に実在性を見出す学術的見解は途絶えたものの、神代文字という概念は近世・近代の思想潮流を大いに反映するものであり、思想史の観点から研究が続けられている。
== 前史 ==
=== 漢字の伝来と仮名の発生 ===
[[ファイル:稲荷山古墳出土鉄剣 (表面).JPG|サムネイル|303x303ピクセル|稲荷山古墳出土鉄剣。日本における最初期の漢字の使用例として知られる。]]
[[日本列島]]([[倭]])に漢字を記した事物が伝来したのはおよそ[[1世紀]]のことであると考えられており、[[漢委奴国王印]]や、[[新|新代]]の[[銅銭]]である[[貨泉]]などが出土している<ref name=":0">{{Cite web |title=漢字はいつから日本にあるのですか。それまで文字はなかったのでしょうか - ことばの疑問 |url=https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-66/ |website=ことば研究館 |access-date=2024-03-26 |language=ja |author=[[斎藤達哉]] |publisher=[[国立国語研究所]]}}</ref>。日本列島に文字文化が浸透したのがいつであるかについては不明瞭であるが{{Efn2|柳田康雄・久住猛雄などにより板石硯が出土することを根拠として、弥生時代の日本列島にすでになんらかの文字文化が存在したとする主張がおこなわれている。一方、古澤義久によりこれら「硯」とされた出土品には、近世の砥石の特徴を有するものが多くあるという反論も出ており、2023年現在、結論は出ていない<ref>{{Cite news|和書 |title=「硯」論争 日本の文字文化の証拠 漢字いつ流入、出土品に賛否 |newspaper=朝日新聞 |date=2023-05-17 |edition=夕刊}}</ref>。}}、[[5世紀]]には[[稲荷山古墳出土鉄剣]]、[[江田船山古墳出土鉄刀]]、[[隅田八幡神社人物画像鏡]]などにみられるよう、[[日本語]]の地名・人名が漢字を用いて記されるようになる<ref name=":0" />。[[6世紀]]から[[7世紀]]にかけては中国大陸の行政機構が取り入れられるようになり、官人を中心に漢字の識字層が増えていった<ref name=":0" /><ref>{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |publisher=吉川弘文館 |author=[[藤堂明保]] |chapter=漢字}}</ref>。とはいえ、[[太安万侶]]が[[和銅]]5年([[712年]])編纂の『[[古事記]]』序文において、「已に訓に因りて述ぶれば、詞は心に逮らず。全く音を以ちて連ぬれば、事の趣更に長し」と嘆くよう、日本語に用いる書記体系として、漢字は扱いやすいものではなかった<ref name=":2">{{Cite journal|和書|author=上野英二|date=2021-03-19|title=仮名成立の意義 覚書 : 言葉の獲得|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050571106574754048|journal=成城国文学|issue=37|pages=104–132|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=古事記 |url=https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51731_50813.html |website=www.aozora.gr.jp |access-date=2024-03-28 |language=ja |author=[[武田祐吉]]注釈校訂}}</ref>。
そこで、これを補うための[[表音文字]]であるところの[[仮名 (文字)|仮名]]が成立していった<ref name=":2" />。[[片仮名]]の起源となったのは[[漢文訓読]]にあたって用いられた省画された漢字であり<ref name=":3">{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |publisher=吉川弘文館 |author=[[築島裕]] |chapter=片仮名}}</ref>、日本においては伝[[神護景雲]]2年([[767年]])書写の『大方広仏華厳経巻第四十一』などに[[角筆]]による書き込みが確認されている<ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=[[小林芳規]]|date=2008|title=東アジアの角筆文献から見る片仮名の起源|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1010282257440560776|journal=比較文化 第54号|pages=3–6}}</ref>{{Efn2|また、[[光明皇后]]の蔵書であり、760年以前に伝来した『[[判比量論残巻]]』([[大谷大学]]蔵)にも同様に省画した漢字を用いた[[吏読]]が残っている。こうした理由から、片仮名のルーツは[[新羅]]にたどることのできるものである可能性がある<ref name=":1" />。}}。また、漢字の[[草体]]をさらに崩すかたちで成立した[[平仮名]]については、[[藤原良相]]邸跡([[9世紀]])から出土した[[墨書土器]]などに初期の例を確認することができるほか、[[貞観 (日本)|貞観]]9年([[867年]])の『讃岐国司解有年申文』などにも用いられている<ref>{{Cite web |title=平仮名は誰が作ったのですか - ことばの疑問 |url=https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-72/ |website=ことば研究館 |access-date=2024-03-26 |language=ja |author=矢田勉 |publisher=国立国語研究所}}</ref>。こうした仮名文字が、漢字とは異なる文字体系として認識されはじめたのは9世紀末から[[10世紀]]前半のことであると考えられている。たとえば[[寛平]]9年([[897年]])の[[宇多天皇]][[宸翰]]である『[[周易|周易抄]]』では、訓注用仮名として[[万葉仮名]]の草体に基づくもの、傍訓用仮名として省画体本位の片仮名が使い分けられている<ref name=":4">{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |publisher=吉川弘文館 |author=小林芳規 |chapter=平仮名}}</ref>。10世紀には万葉仮名は使われなくなり<ref name=":3" />、平仮名のみで書かれた文献、片仮名のみで書かれた文献も多く現れるようになった<ref name=":4" />。
史書によれば、上古の日本において文字は用いられていなかった。[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])に[[斎部広成]]が著した『[[古語拾遺]]』には、「蓋し聞く、上古の世未だ文字有らず、貴賎老少、口々に相伝え、前言往行は存して忘れず。書契以来、古を談ずるを好まず」とある<ref name=":5">{{Cite journal|和書|author=山田孝雄|year=1953|title=所謂神代文字の論-上-|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11201597/1/3|journal=藝林|volume=4|issue=1|pages=2-24}}</ref>。『[[古事記]]』によれば、[[応神天皇]]15年に[[百済|百済王]]の遣いとして遣わされた[[王仁]](和邇吉師)が、『[[論語]]』十巻と『[[千字文]]』一巻を付して貢進したとされるが、『千字文』の成立はそれより時代の下る[[梁 (南朝)|梁代]]に[[周興嗣]]によっておこなわれたものであり、史実性は詳らかではない<ref>{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |publisher=吉川弘文館 |author=[[関晃]] |chapter=王仁}}</ref>。とはいえ伝統的には応神期をもって日本に文字が伝来したとみる見解が多く、[[大江匡房]]『[[筥埼宮記]]』、[[一条兼良]]『[[日本書紀纂疏|日本紀纂疏]]』などが同説をとっている<ref name=":5" />。
=== 五十音思想・言霊思想 ===
[[ファイル:形仮名五十音図.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|山口志道『水穂伝』より「形仮名五十音図」。]]
神代文字論に強い影響を与えた思潮として、[[内村和至]]が「五十音思想」と名づけた、[[五十音図]]に神聖性をもとめる考えがある。[[馬渕和夫]]の論じるところによれば、五十音図は[[悉曇学]]と漢字音韻学における[[反切]]を組み合わせるかたちで平安期に生まれたものであり、本来は外国語の音声を仮名の範疇で処理するための道具として用いられたものである。これが日本語の音韻をあらわすものであると認識されはじめたのは江戸中期のことであり、それ以前においてはむしろ音韻一般を総覧した図であるとみなされていた。こうした背景から、五十音は密教的[[コスモロジー]]のもとに理解された<ref name=":9">{{Cite journal|author=内村和至|date=2005-02-28|title=〈五十音思想〉の素描-『五十音和解』をめぐって-|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001337376777728|journal=文芸研究|volume=95|pages=43–66|language=ja}}</ref>{{Efn2|空海『[[声字実相義]]』によれば、[[大日如来]]は[[法身仏]]であり、一切世界を内包する。その説法は[[十界]]の言語、[[六境]]の表す文字をもてなされる。それゆえ、一切世界の現象は声字である<ref>{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |publisher=吉川弘文館 |author=[[添田隆昭]] |chapter=声字実相義}}</ref>。}}。
[[契沖]]が[[元禄]]6年([[1693年]])に著した『[[和字正濫鈔]]』には、「和邦は、曜霊統を垂るるの秘区、天孫駕を降すの上域なり。僻けて東垂に{{読み仮名|逼|せま}}ると雖も、声韻最も{{読み仮名|寥亮詳雅|りょうりょうしょうが}}にして、能く華梵に通ず{{Efn2|日本は、[[天照大神]]の系譜が続く秘められた領域であり、[[天孫降臨]]がなされた神聖な地である。東の果ての辺境といえども、その言葉の響きは澄み通って上品であり、中国や[[天竺]]とも共通しうる。}}」とある。[[真言宗]]の僧侶である契沖の理論は悉曇学ひいては[[密教]]に付会する部分が多かったが、日本語の音韻・文法体系が明らかになるにつれて、こうした思想は徐々に日本語の体系性を[[神国]]としての日本と紐づけるようなものに昇華していった<ref name=":9" />。[[賀茂真淵]]も[[明和]]6年([[1769年]])ごろの『[[国意考]]』において「五十の声は天地の声にて侍れば、其の内にはらまるるものおのづからのことにして侍り{{Efn2|五十というのは単に字に現れた数だけではなく、実に天地の声でもあるから、その中に含まれるものは自ずから異なっているといわなければならない<ref>{{Cite book|和書 |title=大日本思想全集 第9巻 |year=1931 |publisher=大日本思想全集刊行会 |page=23 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1880203/1/17}}</ref>。}}」と述べたうえで、日本語の「横の音」、すなわちアイウエオについて「ことばの国の天地の神祖の教え給いしことにて、他国にはあらぬ言のためしことなることを知べし」と称賛する。真淵はこのような理由から日本は「言霊の幸わう国」であるとする。[[本居宣長]]は[[天明]]5年([[1785年]])の『[[漢字三音考]]』にて「皇国の古言は五十の音を出ず。是天地の純粋正雅の音のみを用いて。溷雑不正の音を{{読み仮名|厠|まじ}}えざるが故なり」と論じる<ref name=":10">{{Cite journal|和書|author=鎌田東二|author-link=鎌田東二|year=2001|date=|title=言霊思想の比較宗教学的研究|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/500000209710|journal=筑波大学博士論文|pages=49-50|ref={{SfnRef|鎌田|2001}}}}</ref>。
[[平井昌夫]]は、「わが国に固有文字があってほしかったとは、『言霊の幸わう国』との自負心をもっているわれわれ国民の誰しも望んでいるに相違いない」と論じる<ref>{{Cite book|和書 |title=国語・国字問題 |year=1938 |publisher=三笠書房 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1849480/1/23 |author=頼阿佐夫 |page=30}}</ref>。宣長は『古語拾遺』の先述のくだりを引きながら、上古の日本が「口承で事足りた」時代であったことを強調する。[[山下久夫]]が論じるように、これ自体も「漢字文明による『聖人の道』が入ってくるまでは我が国は野蛮な国だった」とする[[太宰春台]]ら儒者の主張を転倒させたものであるが<ref>{{Cite journal|和書|author=山下久夫|month=12|year=2013|title=宣長・秋成・そして篤胤 「復古」の構図をめぐる問題|journal=現代思想|pages=162-181}}</ref>、岩根卓史によれば、神代文字の実在論者であった平田篤胤の場合には、宣長が棄却した「《コトバ》における〈音声〉と〈意味〉との関係」が再考される。篤胤が「古伝」として特に重視したのは祝詞であるが、岩根いわく、篤胤は、祝詞が真正たる所以はそれが漢字以前の《書記》性、すなわち〈書体〉を残しているがゆえであると考えた。篤胤は真の伝のための正当な書記体系が上古にあってしかるべきであると考え、それが神代文字につながったのだという<ref>{{Cite journal|和書|author=岩根卓史|year=2007|title=〈神代文字〉の構想とその論理 平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考|url=https://www.academia.edu/6342930/_%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%97_%E3%81%AE%E6%A7%8B%E6%83%B3%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86|journal=次世代人文社会研究|volume=4}}</ref>。
「五十音思想」の極端な形は、国学者にして[[言霊]]論者の[[山口志道]]の著作にみることができる<ref name=":9" />。志道は[[天保]]5年([[1834年]])の『水穂伝』で、「形仮名」は「神代の御書」であるとして、その起源は自らが伝授された[[荷田春満]]の「稲荷古伝」にみえる十二の図形にあるという。いわく、天地初発のときにあらわれた太初の{{読み仮名|凝|こり}}である父なる「火」と母なる「水」が結合することで第二の凝である「形」、「息」、「声」が生まれ、このうち声の体系として自然に生まれるのがカタカナである{{Sfn|鎌田|2001|pp=55-59}}。また、志道と同時期の人物である中村孝道は50音ではなく75音こそが「天地自然の理」にのっとったものであると論じた{{Sfn|鎌田|2001|pp=62-64}}。[[鎌田東二]]いわく、こうした日本語の音韻構造を形而上学的に解釈し、神授されたものであると称える思想は、「近世国学者の言語意識の通奏低音となって鳴り響いた」ものであった<ref name=":10" />。彼らの大半が神代文字の存在を支持しなかったとはいえ、内村は「一般音韻としての五十音が存在する。その体系は日本語に備わっている。かかるがゆえに、日本は世界の中心である」といった考えは神代文字に容易に通ずるものであることを指摘している<ref name=":9" />。
==
[[ファイル:文明4年高野山版声明集.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|『文明4年([[1472年]])高野山版声明集』。卜部兼倶は、神代文字は同書にみえるような「博士」、すなわち声明の旋律をあらわす符号に類似するものであると論じた。]]
上古の日本に独自の文字体系が存在したという説がとなえられるようになったのは、[[鎌倉期]]のことであり<ref name=":5" />、[[卜部兼方]]の『[[釈日本紀]]』(鎌倉末期)には、以下のような記述がある<ref name=":5" /><ref name=":6">{{Cite book|和書 |title=国史大系 第7巻 |year=1898 |publisher=経済雑誌社 |page=514 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/991097/1/271}}</ref><ref name=":7">{{Cite book|和書 |title=日本上古史論 |year=1947 |publisher=中文館書店 |pages=134-135 |author=[[飯島忠夫]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2968009/1/77}}</ref>。
{{Blockquote|又問う。仮名字、誰人{{Ruby|作|な}}す所か。<br><br>
答う。師説に、大蔵省の御書の中に肥人の字六七枚許有り。先帝御書所に其字を写さしめ給う。皆仮名を用いる。或は其字未だ明ならず。或は{{Ruby|乃|の}}、{{Ruby|川|つ}}等の字明かに之見ゆ。若し彼を以て始と為すべきか。先師の説に云う。漢字我が朝に伝え来ることは応神天皇の御宇なり。和字に於いては其の起り神代に在るべきか。[[亀卜]]の術は、神代より起れり。所謂る此の紀一書の説に、陰陽二神{{Ruby|[[ヒルコ|姪児]]|ひるこち}}{{Ruby|生|あ}}れます。{{Ruby|天神|あめのかみ}}太占を以て之を{{Ruby|卜|うらな}}い、乃ち時日を卜定して之を降したまう。文字無しは、豈に卜を成すべけんや。作者、事の濫觴、神代には在るべき者は、幽玄にして測り難し。伊呂波は[[弘法大師]]所作の由申し伝うるか。此れは昔より伝来の和字を伊呂波に作成せらるの起り也。|卜部兼方|『釈日本紀』}}
同書には、「師説」によれば、「先帝」が[[大蔵省 (律令制)|大蔵省]]の御書所に「[[火国|肥人]]の字」なる文字を写させたとある<ref name=":5" />。この文字には「乃」や「川」にみえるものがあったといい、兼方はこれを典拠として、弘法大師が仮名をつくったというのは誤りであり、上古にはすでに仮名があったと考えるべきであると論じた<ref name=":7" />。また、彼は、そうでなければ当時[[太占]]のような占いができたはずがないと述べている<ref name=":6" /><ref name=":7" />。しかし、山田がいうように、亀卜と漢字の関係が緊密であったことが事実であったとしても、太占がそうであるとする根拠はない<ref name=":5" />。山田孝雄いわくここでいう「師」とは[[矢田部公望]]のことであり、「先帝」は[[醍醐天皇]]を指すという<ref name=":5" />。[[新村出]]は、矢田部の著作にそのような主張は存在しないとして、兼方あるいはその師の説であるという以上のことは言えないと論じている<ref name=":19">{{Cite book|和書 |title=新村出全集 第1巻 (言語研究篇 1) |year=1971 |publisher=筑摩書房 |author=新村出 |chapter=上古文字論批判 |pages=563-602 |author-link=新村出}}</ref>。
さらに、[[忌部正通]]が[[正平 (日本)|正平]]22年・[[貞治]]6年([[1367年]])に執筆したとされる『[[神代巻口訣]]』は、より具体的に神代文字の存在に触れている。いわく「神代文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の典経始めて来朝す。[[推古天皇]]の朝に至って、[[聖徳太子]]漢字を以て和字に附す」とある<ref>{{Cite book|和書 |title=神代の文字 |year=1942 |publisher=霞ケ関書房 |doi=10.11501/1126385 |page=256}}</ref>。同説は、上古の日本においては「[[象形文字]]」が用いられていたものの、聖徳太子による国史([[国記]]・[[天皇記]])編纂にあたって廃されたというものである<ref name=":5" />。
さらに、[[吉田兼倶|卜部兼倶]](吉田兼倶)が[[応仁]]・[[文明 (日本)|文明]]期に執筆した『日本書紀神代抄』には以下のようにあり、上古の日本には博士(声明の旋律をあらわす符号のこと)に類似した文字があったと述べている<ref name=":5" /><ref>{{Cite book|和書 |title=日本書紀神代抄 |year=1938 |publisher=国民精神文化研究所 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1219576/1/25 |series=国民精神文化文献 |volume=20 |author=吉田兼倶 |page=3}}</ref>。一方で、山田は兼倶は明らかに平安中期に生まれた五音博士([[五声]]をあらわす博士)を下敷きにして同文字について論じていること、[[卜部氏|卜部家]]の祖先にあたり、上古の文字にも興味を持っていたはずの兼方がこの文字に対して一切触れていないことなどから、卜部家伝来の神代文字が存在したという説については疑問視している<ref name=":5" />。
{{Blockquote|いろは四十七字は弘法大師之を作す。カタカナは[[吉備真備|吉備大臣]]之を作す。あいうえおの五十字は神代より之有る。神代の文字は一万五千三百六十字あるぞ。はかせと云が神代の字なり。[[イザナギ|伊弉諾]][[イザナミ|伊弉冉]][[天浮橋]]の上に立て曰く、底下豈に国無からんやと。{{Ruby|廼|すなわ}}ち[[天沼矛|天之瓊矛]]以て指下して之を{{Ruby|探|かきさぐ}}りしかば、是に{{Ruby|滄溟|あおうなばら}}を獲き。其後万物を生す時にうらをしたぞ。{{Ruby|卜|うら}}は[[陰陽]]の源[[五行]]の変より起るぞ。其処から文字は出来るぞ。紙墨にあらわすばかり、文字ではないぞ。森羅万象は天地自然易なり。[[伏義]]空中に向かいて一画を下すは自然の文字なり。陰陽は元来一なり。散りて万物と為る処にて文字の数も多なるぞ。一念の心は多念はない。万物の転を被り、万念を作すほどに、文字も万物につれて、繁多になるぞ。亀を焦す時に、五にわりて配五行ぞ。変する時に一万余りを為すぞ。文字も万物の変に依て、五万三千余を為すなり。|卜部兼倶|『日本書紀神代抄』}}また、兼倶の子である[[清原宣賢]]が[[大永]]年中に記した『神代抄』には「神代の文字は秘事にして流布せぬ。一万五千三百六十字あり。其字形[[声明]]のはかせに似たり」とある<ref name=":5" />。宣賢の玄孫にあたる[[清原国賢]]も、[[慶長]]4年([[1599年]])の『日本紀神代巻奥書』において神代文字の存在に触れている<ref name=":19" />。
=== 垂加神道家の神代文字 ===
{{multiple image|footer=(左)『琉球神道記』記載の記号 <br>(右)『和字伝来考』記載の記号|width=|image1=琉球神道記十二支.jpg|image2=和字伝来考十二支.jpg|total_width=100}}
このように、中世においても上古の日本に独自の文字が存在したという見解は存在したものの、実際にこうした神代文字が「発見」されるに至ったのは近世のことである。[[享保]]9年([[1724年]])に[[垂加神道]]家である[[跡部良顕]]が著した『和字伝来考』は、当世においては、儒学ばかりを学び神道について無知であるゆえに「我国を文字なき夷国と覚たる者」が多いことを嘆き、師の[[渋川春海]]が紹介する「[[十二支]]の神代文字」について触れる<ref name=":8">{{Cite journal|author=尹朝鉄|date=2020-03-10|title=【史料紹介】江戸垂加派の神代文字論に関する史料 : 跡部良顕『和字伝来考』・伴部安崇『和字伝来考附録』|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050287540555914496|journal=日韓相互認識|volume=10|pages=47–66|language=ja}}</ref>。良顕は、これが神代文字であることは、春海だけでなくその師である[[山崎闇斎]]も認めるところであると論じる。同文字は実際に春海『瓊矛拾遺』にもあらわれるものの、「神代文字と謂うべき者か」とその書きぶりは抑制的なものであり、かつその典拠が『[[琉球神道記]]』に記述のある、琉球の十二支記号であることは、平田篤胤なども指摘するところである([[琉球古字]])<ref name=":5" />。山田は、良顕がこの事実に気づいていなかったと批判する一方、[[原田実 (作家)|原田実]]は[[阿比留文字]](後述)などにもみられるよう、琉球や[[朝鮮]]といった日本の「辺境」に神代文字の痕跡が残っているとする考えは一般にあったものと論じている{{Sfn|原田|2007|pp=163-164}}。
良顕は、『神代巻口訣』にある「神代文字は象形である」という説はこの文字に当てはまらないとして、この文字とは別に、[[素戔嗚尊]]が鳥跡をもとにつくりだした文字(cf. [[蒼頡]])があったのではないかと論じ、その証左として[[チドリ科|千鳥]]について詠んだ和歌50首あまりを引用した<ref name=":8" />。良顕の弟子である[[伴部安崇]]は[[元文]]4年([[1739年]])に『和字伝来考附録』を著し、「[[武蔵国|武州]][[足立郡|安達郡]]の大社」、おそらくは素戔嗚尊を祭神とする[[足立神社]]で実際の神代文字を目にしたと論じた。尹朝鉄によれば、同文献は実際の神代文字をまとまった形で提示した最初の資料である。安崇は、この文字が五十音であることを他ならぬ同文字の真正性の根拠としている<ref name=":8" />。[[ファイル:和字伝来考附録 和字五十韻.jpg|中央|サムネイル|400x400ピクセル|『和字伝来考附録』に記載される「和字五十韻」。]]
=== ヲシテ ===
[[ファイル:Awauta.svg|サムネイル|412x412ピクセル|ヲシテによる「あわうた」。『秀真政伝紀』に記載される歌。現在の五十音の[[パングラム]]となっている<ref name=":02" />。]]
『秀真政伝紀([[ホツマツタヱ]])』をはじめとする「[[ヲシテ文献]]」には、[[ヲシテ]]とよばれる文字が用いられる<ref name=":11" />。現伝するヲシテ文献のなかで最古であると考えられているのは『神嶺山伝記歳中行事紋』 であり、[[安永]]年間([[1772年]] - [[1781年]])以前に成立したと考えられている。同書に{{仮リンク|傍注|en|Marginalia}}を加えたのは、筆跡から僧侶の[[溥泉]]であるとみなされており、同人物は安永9年([[1780年]])に年代が明確にわかるものとしては最古のヲシテ文献であり、『秀真政伝紀』の注釈書である『春日山紀』を著している<ref name=":02">{{Cite journal|和書|author=吉田唯|authorlink=吉田唯|month=12|year=2020|title=神代文字の時空間 : 古代への幻想と国粋主義者たち (特集 偽書の世界 : ディオニュシオス文書、ヴォイニッチ写本から神代文字、椿井文書まで)|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I031194018-00|journal=ユリイカ|volume=52|issue=15|pages=99-106|publisher=青土社|CRID=1521699231161065728|naid=40022437566|ISSN=13425641}}</ref>。「ヲシデ(テ)文字」という言葉は『秀真政伝紀』に記されるものであり、[[池田満]]により同文献群に用いられる文字の通称として用いられはじめた<ref name=":11" />。『神嶺山伝記歳中行事紋』 には「璽」の字に「ヲシテ」の仮名が振られるほか、『春日山紀』には「{{読み仮名|瓊璽印相|ヲシテタミメノカタチ}}」との記述が見られる。この文脈において、「璽」は[[三種の神器]]たる[[八尺瓊勾玉]]を意味するものであり、文字を神器の印相とみなす考えがあったものと考えられる{{Sfn|吉田|2018|p=49}}。
『秀真政伝紀』の最古の写本は日吉神社蔵([[近江聖人中江藤樹記念館|藤樹記念館]]寄託)の明治33年([[1903年]])謄写本であり{{Efn2|内閣文庫には天保14年(1843年)に小笠原通当によって記された『秀真政伝紀』が所蔵されているが、これは日吉神社本にさらに解釈を加える体裁となっている{{Sfn|吉田|2018|pp=147}}。}}、『[[日本書紀]]』に[[大物主|大物主神]]の子と記載される[[大田田根子]]による序が記されている。同書はその子孫を自称する{{読み仮名|和仁估安聡|わにこやすとし}}が安永4年([[1775年]])に訳文をつけたものであるという<ref>{{Cite book|和書 |title=神代文字の思想: ホツマ文献を読み解く |year=2018 |publisher=平凡社 |page= |isbn=978-4582364538 |edition=kindle |ref={{SfnRef|吉田|2018}} |pages=157-161 |author=吉田唯}}</ref>。昭和2年([[1927年]])の『高島郡志』には「[[漢文]]の頃[[沢田源内|佐々木氏郷]]あり、安永のころ和仁古安聡あり。共に本郡神社の由緒を偽作せり」とある、旧[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]には『和解三尾大明神本土記』『嘉茂大明神本土記』『万木森薬師如来縁起』といった、和仁估の作品と考えられる[[縁起|寺社縁起]]が多く残っており、これらの用語や伝承にはヲシテ文献と共通するものも多い<ref name=":11" />。
『秀真政伝紀』の第一{{読み仮名|紋|あや}}においては[[和歌]]の神であるワカヒメの誕生から結婚までが描かれるが、同書においては「あしびきの(山)」「ほのぼのと(明)」「ぬばたまの(夜)」といった[[枕詞]]の起源が[[イザナギ]]の[[黄泉比良坂|黄泉国帰り]]やワカヒメの事跡と紐づけられる。こうした枕詞の秘儀的解釈は中世においても[[古今伝授]]などにみられるものである。原田は、ヲシテ文献は[[歌道]]が特定の家による管理を離れ、様々な歌論が勃興した時勢と密接に関わったものであるとして、特に『秀真政伝紀』は「全体を『歌』として構成した近世歌道書」として読み解くことができると述べている<ref name=":11">{{Cite book|和書 |title=偽書が揺るがせた日本史 |publisher=山川出版社 |pages=75-79 |author=原田実 |isbn=978-4634151635 |year=2020 |ref={{SfnRef|原田|2020}}}}</ref>。吉田唯は、同文献群を近世において重要であった概念について新たな起源をつくりあげた「近世神話」のひとつであると位置づけている<ref name=":02" />。
=== 近世における神代文字懐疑論 ===
近世において神代文字の実在について論じた学者としては[[新井白石]]が早く、「奉答本郷平先生問目」において以下のように述べている<ref name=":5" />。平田篤胤は『神字日文伝』において「近き世の人に、神代に文字ありと{{読み仮名|論|い}}えるは、新井君美ぬしぞ始なりける」と論じているが、白石の口ぶりは断定的なものではない<ref name=":16">{{Cite journal|和書|author=平井昌夫|year=1944|title=神代文字論爭史――(一)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3555570/1/5|journal=書物展望|volume=14|issue=1|page=2-8}}</ref>。白石は同文をそえて[[佐久間洞巖]]に書簡を送っており、[[熱田神宮]]や[[出雲大社]]に伝わるという[[竹簡]]を見ない限りには神代文字の真贋は論じられないと述べている<ref name=":5" />。
{{Blockquote|東方文字其の来る尚し。蓋し太古以降歴世其の体を変じ、列国其の制を異として、考詳の由無し。俗に聞く神代文字、美嘗て其の聞くを得るは凡そ五つ。或いは其の字読むべからざる者有り、或いは[[科斗文|科斗書]]に如く者有り、或いは[[鳥篆]]に如く者有り、古体の変蓋し此の如し。[[天武天皇|天武]]の世更に[[新字 (辞書)|新字]]を造ること四十四巻、其の体梵書の如し。又肥人書有り、薩人書有りて、肥人書一二字即ち今なお通用する者有り。古きは列国各其の字あり、亦た以て証有り。卜部家所伝一万五千三百七十九字乃ち是れ亀を灼くの兆は猶ほ[[卦]]の[[爻]]有るがごとし<!-- 自信なし-->。|新井白石|奉答本郷平先生問目}}
近世においてはじめて神代文字を全く否定する論考を出したのは[[貝原益軒]]であり<ref name=":16" />、『和事始点例説』には「今巫覡の家に上古の和字と称し符に書は{{Ill|遵生八牋|zh|遵生八牋}}不求人等に載たる中華[[道士]]の符章に書く偽字なるを知らで上古の和字と思へるは固陋の至なり」とある<ref name=":19" />。また、『{{読み仮名|自娯集|じごしゅう}}』においては『古語拾遺』や『筥埼宮記』などを引用し、上古の文字の存在を否定している<ref name=":16" />。[[太宰春台]]も『倭読要領』において「吾国に文字なき事は、先賢の説明白なり……巫祝の{{読み仮名|徒|ともがら}}往往吾國に文字ありしことをいうは皆孟浪の談なり」と、端的に神代文字の存在を否定する<ref name=":12" />。
彼ら漢学者のみならず、多くの国学者も神代文字に際しては冷淡であった<ref name=":12" />。契沖は『和字正濫鈔』において「此国に神も人も文字を作り給はぬは漢土にならひて然るべき故あるなるべし」と述べるほか<ref name=":19" />、[[本居宣長]]は『[[古事記伝]]』において「今神代の文字などいう物あるは、後世人の{{読み仮名|偽作|いつわり}}にて、いうにたらず」、[[賀茂真淵]]は『[[語意考]]』において「此れの日出ずる国は、五十連の音のまにまに{{読み仮名|言|こと}}を成して萬ずのことを口から言い伝える国なる」と論じている<ref name=":16" />。
=== 阿比留文字・阿比留草文字 ===
[[ファイル:『神国神字弁論』阿比留草文字.jpg|サムネイル|350x350px|『神国神字弁論』に記載される阿比留草文字。|左]]
[[尾張国]]・[[興正寺 (名古屋市)|八事山興正寺]]の僧侶であった[[妙竜|諦忍]]は、[[宝暦]]14年([[1764年]])に『以呂波問弁』をあらわし、神代文字の存在を主張した<ref name=":12">{{Cite journal|和書|author=山田孝雄|year=1953|title=所謂神代文字の論-中-|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11201598/1/7|journal=藝林|volume=4|issue=2|pages=88-107}}</ref>。同書は偽書『[[先代旧事本紀大成経]]』を引用し、神仏習合的な世界観からいろはの起源について論じるもので、「天照大神は印度の[[毘盧遮那仏|大毘盧遮那成仏]]であるから、伊呂波と梵字の符合はもとより怪しむに足らぬ」といった、[[保科孝一]]いわく「はなはだしく常軌を逸している」記述が多い<ref>{{Cite book|和書 |title=新体国語学史 |year=1934 |publisher=賢文館 |pages=239-240 |author=[[保科孝一]]}}</ref>。{{読み仮名|[[金竜敬雄]]|きんりゅうけいゆう}}は『駁以呂波問弁』において、「若し文字あらば名山古跡には一字半点なりとものこり在るべきに、終に其の沙汰なきは何事ぞや」と諦忍に反駁した<ref name=":12" />。
これに応答する形で諦忍は安永7年([[1778年]])、『神国神字弁論』を上梓し、「神字厳然として、今に名山霊窟に存在せり」として「[[鎌倉]][[鶴岡八幡宮]]宝庫および[[河内国|河内]]平岡宮と泡輪宮」にあるという神代文字の図を掲載した<ref name=":12" />。なお、「河内平岡宮と泡輪宮」というのは『旧事大成経』にみえる神社の名前であり、同書は卜部氏・[[忌部氏]]の祖先がそれぞれ祖記を{{読み仮名|土笥|はにはこ}}に入れ、祖神を祀る[[枚岡神社|平岡宮]]・泡輪宮に奉納したものが原典となったと謳っている<ref>{{Cite book|和書 |title=旧事大成経に関する研究 |year=1952 |publisher=芸苑社 |pages=12-13 |author=[[河野省三]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2966630/1/15}}</ref>。「泡輪宮」について、山田は『古語拾遺』にある[[阿波国|阿波]]の忌部氏が東国に渡り[[安房郡]]をつくりあげたという記述からおもえらくは[[安房神社]]のことであろうとするが、「{{読み仮名|安房|アハ}}」と「{{読み仮名|泡|アワ}}」は別音であり、同書の筆者が「如何に無学であるかを暴露している」と激しく論難している<ref name=":12" />。
国学者の[[平田篤胤]]は、『神国神字弁論』に強い影響を受けた人物のひとりである。篤胤は『古史徵開題記』において、「神世には文字無りしと云説、斎部広成[[宿禰]]の古語拾遺に……と{{読み仮名|云|へ}}るを{{読み仮名|徴|あかし}}と為て、世の{{読み仮名|事識人|ことしりびと}}たちの定め云るまにまに、{{読み仮名|予|おのれ}}も{{読み仮名|然|さる}}ことに思たりしを、{{読み仮名|近頃|ちかきころ}}、よく想へば、此は{{読み仮名|思慮|おもいはかり}}の{{読み仮名|委|くわし}}からざるなりけり。故、今共を論ひ直さむとするなり」と論じた<ref name=":13" />。諦忍が鶴岡八幡宮にあるとした文字について「是ぞ今{{読み仮名|予|おの}}が著はし伝ふる日文字を世に著わせる初めにて、いとも{{読み仮名|感|めで}}たき{{読み仮名|功|いさお}}なりける」と称賛している。一方で、篤胤は諦忍によるこれを「平岡宮・泡輪宮に奉納されていた神字である」とする見解を「旧事大成経という物に記せる妄説に本づきて言い出たる」ものとして否定しており、山田はこのことを「潮音(黒滝潮音、『旧事大成経』を偽作した人物)を否認しながら、潮音の後継者となっている」と非難している<ref name=":13">{{Cite journal|和書|author=山田孝雄|year=1953|title=所謂神代文字の論-下-|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11201599/1/16|journal=藝林|volume=4|issue=3|pages=176-199}}</ref>。
[[ファイル:Ahiru moji 1.jpg|サムネイル|『神字日文伝』に記載される阿比留文字。|300x300ピクセル]]
また、篤胤は鶴岡八幡宮で見つかった文字は草書体であるといい、[[文政]]2年([[1819年]])の『[[神字日文伝]]』において、同文字の「真書体」の発見を報告している<ref name=":13" />。同書によれば、この文字の典拠は[[下総国]]の大中臣正幸が源八重平に伝え、さらに[[会津]]の神道家である大竹喜三郎政文に伝えたものであるといい、その由緒は[[天児屋根命]]が[[対馬]]の卜部・[[阿比留氏]]に伝えたものとも、天照大神が[[思兼命]]に作らせたものともいう。篤胤はこの文字のことを「日文真字」と読んだが、[[阿比留文字]]とも呼ぶ<ref>{{Cite book|和書 |title=図説神代文字入門: 読める 書ける 使える |year=2007 |publisher=ビイング・ネット・プレス |pages=8-15 |isbn=978-4904117217|author=原田実 |ref={{SfnRef|原田|2007}}}}</ref>。篤胤は「日文真字」が[[朝鮮]]の[[ハングル|諺文]]に類似していることを認識していたが、「此はもと彼の諺文を採て作れるには非じかと半ば疑わしく或ぬるを、また思えば彼諺文に草書ある事を聞かず」として、この文字は日本独自のものであると結論を下している<ref name=":13" />。
[[伴信友]]は[[嘉永]]3年([[1850年]])の『[[仮字本末]]』において『神字日文伝』を否定し、阿比留文字については諺文の祖先である[[吏読|吏道]]が日本に伝わったもので、神代文字にはあたらないと論じた{{Efn2|なお山田は、吏道は漢字の略字であり、この文字は諺文をもとに作られた文字にすぎないと同説を批判している<ref name=":13" />。}}。信友は神代文字存在論者であり、篤胤とも親交が深かったものの、のちに不仲となった人物である<ref name=":17">{{Cite journal|和書|author=平井昌夫|title=神代文字論爭史――(二)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3555571/1/6|journal=書物展望|volume=14|issue=2|pages=9-15}}</ref>。篤胤は同年の『古史本弁経』において、信友が旧友であり、『開題記』『日文伝』の執筆に助力したことにも触れながら、「己が開題記また日文伝などは、右の故よし有れば、 厭まで知れて在りながら、少かも知らぬ気にて、{{読み仮名|都|すべ}}ては仮字の本末を証すとは云えど、主とは己が神世に文字ありてふ小説の、裡を切たる書なりけり」と彼を罵っている。また、『仮字本末』に対しては、松浦道輔が『仮名本末弁妄』なる反対説を上梓している<ref name=":17" />。山田は、これらの文字の順列がすべて「[[ヒフミ歌|ひふみよいむなやこともちろらね]]」となっていることにも触れ、この出典もまた『旧事大成経』であることを明らかにしている<ref name=":13" />。
近世において神代文字実在論を肯定した学者としてはほかに、篤胤門下の[[大国隆正]]がいる。隆正は天保11年([[1840年]])に『神学小考』を上梓し、篤胤の説におおむねうべなったほか、『神字原』や『神字箋』といった[[便覧]]を著した。また、[[慶應]]3年([[1867年]])には[[岩崎長世]]が『日文伝』に掲載される諸体に索引を付けた『神字彙』を著した<ref name=":18">{{Cite journal|和書|author=平井昌夫|title=神代文字論爭史――(三)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3555572/1/8|journal=書物展望|volume=14|issue=3・4|pages=13-19}}</ref>。
=== その他の近世の神代文字 ===
{{multiple image|footer=左から阿波文字・天名地鎮・豊国文字(象形文字)。|width=|image1=阿波文字.jpg|image2=Anaichi 1.jpg|total_width=450|image3=Toyokuni moji kotaishoji.jpg}}
先に紹介したほかにも、近世には神代文字を肯定する論が数多く著された。篤胤『神字日文伝』によれば、京都の僧敬光が『和字攷』、[[上野国]][[桐生市|桐生]]の{{読み仮名|澤宏粲|さわひろよし}}は『神字のしらべ』、伊勢国亀山の岩田友靖が『神字真伝』なるものを上梓したというが、彼いわくこれらはみな『旧事大成経』に依拠するものであったという。篤胤は阿比留文字以外の神代文字に関する資料については真贋未了として、『神字日文伝』の附録である「疑字編」におさめている<ref name=":12" />。
こうした「疑字」のひとつに[[阿波文字]]がある。この文字は[[阿波国]]・[[大宮八幡神社|大宮八幡宮]]の神職であった藤原充長が[[1779年]]([[安永]]8年)に著した『{{読み仮名|神字書|かなふみ}}』にあらわれるもので、篤胤は「疑字編」に、岩田惇德なる人物がこの文字を神代のものともてはやし、八幡宮にてこの文字が書かれた書を移し持ち帰ったものの、その末尾には藤原充長の名前が書いてあったという話をおさめて、「なお此の充長が作れる文字を{{読み仮名|信用|うけもち}}たる人いと多かり。憐むべし」と述べている<ref name=":12" />。阿波文字は江戸期のうちに各所に伝わっていたようで、[[落合直澄]]によれば[[陸前国]][[本吉郡]]の御崎神社において阿波文字で「クヱラツカ」と記した石碑が見つかっているほか、[[下野国]][[宇都宮]]の{{読み仮名|千族|ちから}}家に寛政11年(1799年)に、阿波文字で書かれた[[陸奥国]][[加美郡]]意水家秘伝の薬方が伝わっているという。また、[[信濃国]][[伊那郡]][[大御食神社]]に伝わる[[古史古伝]]である『{{読み仮名|美社神字解|うるわしのもりしんじかい}}』は、阿比留草文字と阿波文字を混ぜ書きして用いている{{Sfn|原田|2007||pp=37-38}}。
[[天保]]2年([[1831年]])、[[薩摩藩]]で編纂された農書である『[[成形図説]]』には、領内の農民が[[田券]](田の数を記した地券)に用いる特殊な符丁に関する記述があるが{{Sfn|原田|2007||p=24}}、その説明において「又河内枚岡泡輪神社の蔵土笥に{{読み仮名|鐫|え}}るところ[[天名地鎮]]といふものあり、五音字母なり。其宇左の如し」というくだりがある<ref name=":12" />。天名地鎮については[[豊後国|豊後]]の国学者である[[鶴峯戊申]]が天保9年([[1838年]])に『{{読み仮名|鍥木文字考|けいぼくもじこう}}』を著し、この文字は日本の古代文字であるだけでなく、世界のあらゆる文字の起源であると力説した。さらに、戊申は嘉永元年([[1848年]])にも『{{読み仮名|嘉永刪定神代文字考|かえいさんていかみよもじこう}}』を著し、天名地鎮は太占のひびに由来する真正の神代文字であることを説いた{{Sfn|原田|2007||p=|pp=25-26}}。山田は「枚岡泡輪神社」が『旧事大成経』にある平岡宮・泡輪宮をひとつの神社と混同したものであるとして、「人を愚弄するも甚しいといわねばなるまい」と絶句し、「全然架空のものでも、神社の名を出だせば俗人が信用するのみならず、やかましい学者でも軽々しく信用する」状況がこの文字からわかるという。山田はまた、同書が「土笥に神代の文献を納めた」という『旧事大成経』の内容を「土笥に文字を彫りつけた」と改竄する同書の内容について、「旧事大成経に対してさえも二重の罪を犯している」と述べている<ref name=":12" />。
近世に伝わっていた神代文字としては、ほかに[[豊国文字]]などもある。豊後国[[大野郡 (大分県)|大野郡]][[土師村 (大分県)|土師村]]の宗像家・[[海部郡 (豊後国)|海部郡]][[臼杵藩|臼杵]]福良村の大友家に伝わっていたという[[古史古伝]]の『[[上記]]』に記載されるもので、[[瓊瓊杵尊]]の代につくられたという{{Sfn|原田|2007||pp=76-78}}、同書は、象形によって五十音をあらわす古体と、それを改良したという、カタカナに似た新体を収録しており、新村は「さりながらかく書物を作り、又新古の変遷を示すなど、神字の偽作も狡猾になりゆけるに驚かるるなり」と論じている<ref name=":19" />。[[守護|豊後国守護]]である[[大友能直]]とその家臣団が編纂したものであると記述されるが、平田篤胤の文化8年([[1811年]])の著作である『[[古史成文]]』から引き写した記述があるため、それ以降の成立であることは疑いない{{Sfn|原田|2007||pp=76-78}}。
== 近現代の神代文字 ==
=== 大石凝真素美と大本系宗教の神代文字 ===
[[ファイル:水茎文字.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|水茎文字]]
神道家である[[大石凝真素美]]は、国学者の中村孝道・山口志道(先述)が構想した[[言霊学]]を受け継ぎつつも独自の言霊論を展開したが{{Sfn|鎌田|2001|pp=84-85}}、彼は[[天津金木学]]なる独自の行法をもて「水茎文字」なる文字を感得した{{Sfn|原田|2007||pp=|p=124}}。[[明治]]15年([[1882年]])ごろ、[[滋賀県]][[蒲生郡]][[岡山村 (滋賀県)|岡山村]]大字龍王崎にある「水茎の岡」から[[琵琶湖]]を望んでいたが、突如湖面の波紋がたち、文字を描いたという{{Sfn|原田|2007||pp=|p=90}}{{Sfn|原田|2007||pp=|p=127}}。
孝道は、人間と世界は小天地と大天地として照応の関係にあり、日本語の75音は天地をあらわしていると論じたほか、『言霊真洲鏡』において「上古吾皇国文字瑞茎と云ふものにて形となり、書つらねたるをマス鏡と云ふなり。瑞茎と云えるは、上古木切れ竹切れにて声の形を造りたるものにして、今様の文字の類には非ず。上古吾国は文字無し等云へるは、此瑞茎の訳を知らざるものゝ云ふ事なり」と、この75文字をあらわした「瑞茎」なる神代文字の存在を提示した{{Sfn|鎌田|2001||pp=66-67|p=}}。大石凝は湖面にうつったこの文字こそが孝道のいう75音を表す文字であると理解し、取り憑かれたようにそれを写し取った{{Sfn|原田|2007||pp=|p=90}}。大石凝真素美の思想の多くは、新宗教「[[大本]]」の教祖であった[[出口王仁三郎]]に受け継がれた。出口は[[大正]]4年([[1915年]])、大本信徒を連れ、大石凝門下の[[朝倉尚炯]]夫妻と水茎の岡に上り、実際に「ア」「オ」「エ」「イ」の文字が現れては消えるのを観察したという。また、出口が[[京都府]][[綾部市|綾部]]にある大本本部に帰って以来、本部の池にも水茎文字があらわれるようになった{{Sfn|原田|2007||pp=127-128|p=}}。
大本は表面的には[[皇道]]を標榜していた一方、その教義は出口を中心とする、[[国家神道]]とは大きく相反するものであったため<ref>{{Cite journal|和書|author=玉置文弥|date=2023|title=第二次大本事件が残したもの|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/commons/2023/2/2023_95/_article/-char/ja/|journal=コモンズ|volume=2023|issue=2|pages=95–131|doi=10.57298/commons.2023.2_95}}</ref>、大正10年([[1921年]])と[[昭和]]10年([[1935年]])には[[不敬罪]]などを名目とする大規模な弾圧がおこなわれた([[大本事件]])<ref>{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |publisher=吉川弘文館 |author=上田正昭 |chapter=大本教事件}}</ref>。これを好機と捉えたのが大本が本部を構える地でもある旧[[綾部藩|綾部藩主家]]・[[九鬼氏]]の当主である[[子爵]]・[[九鬼隆治]]であった。彼は大本の主神である[[大本神諭|艮の金神]]は本来綾部藩主家が祭祀していたものであると論じ、大正9年(1920年)には[[皇道宣揚会 (日本)|皇道宣揚会]]なる宗教団体を興していた。彼は自らの教勢をのばすため、神道研究家の三浦一郎に家伝であるという『[[九鬼文書]]』を渡し、研究をおこなわせた{{Sfn|原田|2020|pp=121-122}}。[[昭和]]16年([[1941年]])、三浦はこれを『九鬼文書の研究』という書籍にまとめ、同書には「1. 原体文字(阿比留文字)」、「2. 形態文字(豊国文字象形文字)」「3. 草体文字(オリジナルの神代文字)」「4. 変態文字(一)(阿比留草文字および阿波文字)」、「5. 変態文字(二)(阿比留草文字)」、「6. 改態文字(豊国文字新体象字)」、「7. 濁音文字(豊国文字新体象字に濁音を打ったもの、数字はオリジナル)」「8. 九鬼神宝より録したる神字秘遍(3. の草書と豊国文字象形文字)」の表が記載されていることを報告した{{Sfn|原田|2007||pp=101-102|p=}}。
同書は明らかに大本の教義および『[[竹内文書]]』(後述)からの影響を色濃く受けたものであり{{Sfn|原田|2020|p=122|pp=}}、特に前者については強く問題視された。昭和18年(1943年)におこなわれた座談会では[[國學院大學]]教授の[[島田春雄]]らが「不敬である」と三浦を論難し、同年には三浦は特高警察から5ヶ月に及ぶ取り調べを受けることになった{{Sfn|原田|2020|pp=123-125}}。
=== 竹内文書の神代文字 ===
[[ファイル:大日本天皇國太古代上々代神代文字之卷.jpg|サムネイル|『竹内文書』「神代文字之巻」。狩野亨吉による鑑定の対象となった。]]
『[[竹内文書]]』は神道系新興宗教である[[皇祖皇太神宮天津教]]が「神宝」として伝えていた文書・文献の総称である{{Sfn|原田|2020|pp=|p=114}}。教祖の[[竹内巨麿]]いわく、皇祖皇太神宮は人類発祥以来の歴史を誇る古社であったが、彼が明治43年([[1910年]])に[[茨城県]][[多賀郡]][[磯原町]]で同宗教を「再興」するまでは廃絶していた{{Sfn|原田|2007||pp=|p=84}}。
同書には多数の神代文字が収録されており、阿比留文字・阿比留草文字・豊国文字といった既存のものからオリジナルのものまで、五十音図のかたちに整えられたものだけでも38種類の文字体系が記載される{{Sfn|原田|2007||pp=|p=85}}。原田によれば、竹内巨麿は元来南朝忠臣の末裔を名乗り、大正期より先祖より受け継いだという南朝関係の宝物を拝観させていたが、昭和期に入り、[[日ユ同祖論|日ユ同祖論者]]であり、モーゼの十戒を刻んだ石の現物が日本国内にあるという信念を持っていた[[酒井勝軍]]が天津教を訪れて以来、その性質が変容したという。竹内は酒井の求めに応じてモーゼの十戒を記した石や、酒井が「発見」した「[[葦嶽山|世界最古のピラミッド]]」の由来を記した古文書などを提供するようになり、最終的には地球全土の首都として栄えた皇祖皇太神宮を忠臣とする宗教として発展するようになる{{Sfn|原田|2020|pp=|p=114}}{{Efn2|一方で、藤原明は、竹内巨麿が酒井勝軍に対して受動的だったとする[[武田崇元|有賀龍太]]以来の見解に疑問を唱えており、竹内が酒井のために記した「モーゼの遺言と系図」に、「後代ニモオゼノ十誡法宝五枚石宝三千年後ニ発見スル時アル(略)左腿胯ニ地球図形ノ図紋アル人五色人を統一スル神主ナリ」などと自らの世界統一の正当性を主張する文言を書き加えていることなどから、「『竹内文献』の気宇壮大な構想の誕生に、酒井勝軍のような外部の人士からの影響は必ずしも必要であったとは思えない」と論じている{{Sfn|藤原|2019|pp=414-462}}。}}。
竹内らは名士に対しても積極的にロビー活動をおこない、昭和3年([[1928年]])[[3月29日]]には[[公爵]]・[[一条実孝]]、[[海軍大将]]・[[有馬良橘]]などを磯原に呼び寄せ、「神代文字神霊宝巻」なる文献を拝観させた。この2ヶ月後には[[陸軍大将]]の[[本郷房太郎]]が同文献を拝観し、「日本に文字の起源ありとは、実に得がたき文化の発祥地といわねばならぬ」と感激したという<ref>{{Cite book|和書 |title=幻影の偽書『竹内文献』と竹内巨麿 超国家主義の妖怪 |year=2019 |publisher=河出書房新社 |pages=995-1017 |author=藤原明 |edition=Kindle 版 |ref={{SfnRef|藤原|2019}} |isbn=978-4309227986}}</ref>。竹内文書の信奉者としては、ほかに[[小磯國昭|小磯国昭]]が存在した。小磯は竹内文書をはじめとする古史古伝を政官会や軍部に広める活動をしていた[[中里義美]]と懇意であり、昭和15年([[1940年]])には中里が代表を務める[[神之日本社]]主催の「神日本思想強調の夕べ」なる会合で、以下のような内容の講演をおこなっている<ref name=":14">{{Cite book|和書 |title=戦争とオカルティズム 現人神天皇と神憑り軍人 |year=2023 |publisher=二見書房 |author=藤巻一保 |pages=152-158 |ref={{SfnRef|藤巻|2023}} |isbn=978-4576230412}}</ref>。
{{Blockquote|海外諸国の至るところに発見される奇妙不思議なる彫刻の文字が我国の神代文字に合すれば、これまた簡単に読破されるというではないか。故に吾等は断じて現実の科学証左に捉われることなく、報本反始の古き昔に還って、揺ぎなき万代の根柢を為す神代史実の究明こそは、刻下焦眉の急であると断ぜずには居られない。|小磯國昭|「神日本思想強調の夕べ」講演}}
とはいえ大本同様、天津教も取り締まりの対象となっていた。昭和11年([[1936年]])には特高警察が、竹内および信者のひとりである吉田兼吉を不敬罪・[[文書偽造の罪|文書偽造行使罪]]・[[詐欺罪]]で検挙した([[第二次天津教事件]]){{Sfn|藤原|2019|p=1422}}。同年6月、[[狩野亨吉]]は『[[思想 (雑誌)|思想]]』誌上に「天津教古文書の批判」を発表した。狩野は以前にも『竹内文書』の鑑定をおこなったが「人心を刺激する恐れ」から言葉をぼかした批判をするにとどまった。しかし、軍部に同文書を鵜呑みにする者がいるという事情を知り、その社会的影響にあらためて鑑定に乗り出したという<ref name=":15" />{{Sfn|原田|2020|pp=|p=116}}。狩野は同文書の「神代文字之巻」を[[換字式暗号]]の要領で解読し{{Efn2|なお、『竹内文書』収録神代文字の五十音図は公刊されており、狩野も同論文において「私はいわゆる神代文字の予備知識がなかったため、この等文書の調査を始めた時には天津教の神代文字は読めようとは想わなかったが、丁付の数字に不図気付いてから奮発しておよそ一ヶ月を費して全部が読めた。後に友人の[[渡辺大濤]]氏から近頃某氏の著した神代文字の本の中にこの文字を説いていることを聞かされ、自分の寡聞を恥ずると同時に、世間にはまた迷信者もあるものと思った」と述懐している<ref name=":15" />。}}、「年」「即位」「勧請」「水門」といった漢語が散見されること、古代の文献においては「幼童の数え歌にさえ古い呼方を伝えている」数詞がすべて漢音であることなどを批判している<ref name=":15">{{Cite web |title=天津教古文書の批判 |url=https://www.aozora.gr.jp/cards/000866/files/3039_23980.html |website=www.aozora.gr.jp |access-date=2024-03-31 |language=ja |last=狩野亨吉}}</ref>。狩野は同事件において検察側の証人として出廷したほか、[[橋本進吉]]も竹内文書における神代文字の「原文」が「訳文」と対応関係にないこと、神代文字なるものは近世の偽作にすぎないことなどを証言した{{Sfn|原田|2020|p=118|pp=}}。昭和19年(1944年)12月1日に竹内は無罪判決をくだされるも、同事件により竹内が不敬罪の公判に付せられたことは大きく、教団組織自体は解体を余儀なくされた{{Sfn|藤原|2019|pp=1781-1846|p=}}。
こうした状況下の昭和16年(1941年)、中里は[[第2次近衛内閣|近衛内閣]]に「神代文字実在確認ノ建白書」を提出することを考え、連署をもとめるべく、[[朝鮮総督]]をつとめていた小磯を訪ねた。これに対し、小磯は「独自に神代文字の研究機関設置の件を建白したいから」という理由で断り、翌年再び中里が訪朝した際には独自の「神代文化研究機関」の創立草案を示し、「その人選と組織編成」を中里に依頼したという<ref name=":14" />。小磯は組閣の2ヶ月前にあたる昭和19年([[1944年]])においても、『日本におけるキリストの遺跡を探る』なるドキュメント映画の撮影に、当時の大卒初任給の27倍にあたる2306円を拠出するなど、熱心に竹内文書を信奉したが、結論として当時の時勢にあたって小磯は無力であり、[[太平洋戦争]]敗戦の年である昭和20年([[1945年]])4月、[[小磯内閣]]は「何もできないままに総辞職」した{{Sfn|藤巻|2023|pp=160-166}}。
=== 近現代における神代文字の議論 ===
[[ファイル:レオン・ド・ロニ訳古事記.png|サムネイル|レオン・ド・ロニ訳『古事記』序文。]]
明治維新後も神代文字に関する論争は続いた。明治4年([[1871年]])には藤原政興が『神代字源考』を上梓したほか、[[矢野玄道]]は明治8年([[1875年]])に篤胤『開題記』の反駁に反駁するという体裁をとり『懲狂人』を著した(刊行は明治22年・[[1889年]])。また、釈慧眼は明治9年([[1876年]])に『旧事大成経』を下敷きとする神代文字肯定論である『以呂波音訓伝』を出版した<ref name=":18" />。
[[フランス]]の[[日本学|日本学者]]である[[レオン・ド・ロニー|レオン・ド・ロニ]]は[[1882年]]に“Questions d’archéologie japonaise: communications faites à l’Académie des inscriptions et belles-lettres“を発表し、阿比留文字は[[ハングル]]を起源とする日本の古代文字であり、その源流は[[デーヴァナーガリー文字]]に辿ることができると論じた。[[1883年]]、ロニは[[フランス国立東洋言語文化学院|東洋語学校]]のテキストとして『古事記』を翻訳したが、原文の訓読にあたって阿比留文字を用いた。ロニは藤原政興による『神字古事記』を所蔵しており、[[平藤喜久子]]はおそらくこれが原本となったのだろうと論じている<ref name=":20" />。
これに応じて、[[バジル・ホール・チェンバレン]]は同年に“On two questions of Japanese Archaeology”を発表した。同論文において、チェンバレンは神代文字は「熱狂的な神道復興主義者」たる篤胤の創作にすぎず、古代日本に文字があったとする証拠よりも、なかったとする証拠のほうが強力であることを論じた<ref name=":20">{{Cite journal|和書|author=平藤喜久子|date=2023-12|title=奇人と奇縁の神話研究――レオン・ド・ロニと平田篤胤|journal=現代思想|pages=486-501}}</ref>。チェンバレンは明治19年(1886年)に日本語でも「神字有無論」を発表し、神代文字の存在を否定した<ref name=":18" />。チェンバレンは「1. 神代文字が、表意文字ではなく直に表音文字からはじまるのは奇妙であること」「2. 神代文字があったのならば、漢文訓読にあたって[[ヲコト点]]のような記号を用いるのは不自然であること」「3. 『{{読み仮名|文|ふみ}}』『{{読み仮名|簡|かみ}}』のように、書に関する国語はなべて漢語由来であること」「4. 神代文字が存在したのならば漢字を借用する必要性は薄いこと」「5. 日本に表音文字を発明するほどの文化があったのならば、後世に中国文化を輸入しているのは不自然であること」「6. 古書に神代文字の存在に言及するものはないこと」「7. 神代文字の語順とされる『ひふみよ』という言葉は当時の史料にみられないこと」を、神代文字を比定する論拠とした<ref name=":19" />。
[[神宮教]]本部長の[[落合直澄]]は明治21年(1888年)に『日本古代文字考』を上梓し、上古日本には12種類の神代文字が存在すると論じた{{Sfn|原田|2007||pp=109-113|p=}}。落合は山口志道のような「字源図」をつくり、これらの文字の起源を論じたほか{{Sfn|原田|2007||pp=|p=154}}、平仮名・片仮名はこれら神代文字が変形してうまれたものであるとした<ref name=":18" />。
明治36年(1903年)に[[金沢庄三郎]]は『日本文法論』を上梓し、「1. 神代文字は表音文字であり、象形文字の段階を踏まずにそうした高等な文字があらわれるのは不自然であること」「2. 『文』に代表されるように、和語の文字に関する語には漢語由来のものが多く、神代文字の実在を仮定するなら不自然であること」「3. 神代文字は朝鮮の諺文に酷似すること」をもって神代文字を否定した<ref>{{Cite book|和書 |title=日本文法論 |year=1903 |publisher=金港堂書籍 |pages=6-7 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/992390/1/13}}</ref>。平井昌夫によれば、これをもって神代文字非実在論が国語学における定説となり、以来国語学者で神代文字実在論をとなえるものはいなくなったという<ref name=":18" />。ほかに、[[吉沢義則]]による昭和21年(1946年)の『国語史概説』においては、「1. 『仮名本末』に記されるよう、いわゆる神代文字は偽作であること」「2. 表語文字に先んじて表音文字があらわれることは考え難いこと」「3. 仮にそのような文字が存在したのなら、わざわざ異なる言語系統に由来する漢字を輸入する必然性がないこと」「4. 神代文字は上代特殊仮名遣を反映していないこと」を根拠に神代文字が否定されている<ref>{{Cite book|和書 |title=国語史概説 |publisher=雄山閣 |author=吉沢義則 |year=1946 |pages=2-3 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1126299/1/5}}</ref>。
山田孝雄が昭和28年(1953年)に発表した『所謂神代文字の論』をもって神代文字に関する議論はとりまず終結し、学術界において神代文字が顧みられることはなくなった。一方、清水豊などにより平田篤胤の神代文字論はふたたび注目されるところとなり、神代文字が実在しないことを前提として、思想史的な文脈からの研究が続けられている<ref name=":02" />。
=== その他の近現代の神代文字 ===
[[ファイル:Katakamna.PNG|サムネイル|カタカムナ]]
終戦後、[[満洲|満州]]より引き上げた技術者の[[楢崎皐月]]は、兵庫県の六甲山系で地磁気測定の実験をおこなっていた際に、{{読み仮名|平十字|ひらとうじ}}なる人物を出会ったという。平は自らが「カタカムナ神社」の宮司であると名乗り、御神体であるという古い巻物を見せた。楢崎はこれこそが自分が[[吉林市|吉林]]にいたとき、蘆有三なる人物に伝授された、上古日本の支配民族である「アシア族」の遺物にほかならないと会得し、以来古代文字・[[カタカムナ]]の研究に励んだという<ref>{{Cite journal|和書|author=寺石悦章|date=2010|title=楢崎皐月の生涯について|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpmyu/9/1_2/9_25/_article/-char/ja/|journal=四日市大学総合政策学部論集|volume=9|issue=1_2|pages=25–50|doi=10.24584/jpmyu.9.1_2_25}}</ref>{{Sfn|原田|2007||pp=|p=116}}。経営コンサルタントである[[船井幸雄]]が彼に心酔していたこともあり、楢崎は著名となったものの<ref>{{Cite journal|和書|author=寺石悦章|date=2010|title=楢崎皐月に関する資料について|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpmyu/9/1_2/9_1/_article/-char/ja/|journal=四日市大学総合政策学部論集|volume=9|issue=1_2|pages=1–23|doi=10.24584/jpmyu.9.1_2_1}}</ref>、原田は「楢崎が太古文明に仮託して創作したものである可能性が高い」と述べている{{Sfn|原田|2007||pp=|p=116}}。
昭和43年([[1968年]])、{{読み仮名|岩間尹|いわまただし}}によって、[[不二阿祖山太神宮]]に伝わったといい、[[山梨県]][[南都留郡]][[明見村]]の宮下家が所蔵していた古史古伝の『[[宮下文書]]』が紹介された。豊国文字に類似した象形文字がみられるが、同書には『上記』の影響が見られる記述が存在することから、同書を参考にして付け加えられたものだと考えられている{{Sfn|原田|2007||pp=104-106}}。
昭和50年([[1975年]])、[[青森県]][[北津軽郡]][[市浦村]]史の資料編として、『[[東日流外三郡誌]]』が刊行された。寛政年間に、秋田氏の親族である秋田孝季が、義弟で津軽飯詰の庄屋であった和田長三郎吉次とともに編纂したもので、吉次の子孫である[[和田喜八郎]]が所蔵していたという。上古から[[興国]]期の大津波までの歴史を記載した古史古伝であり{{Sfn|原田|2020|pp=45-47|p=}}、地面に石を置いて示す記号、縄を結んで示す記号、語部が覚書に用いたという記号といった「古代文字」が収録されている{{Sfn|原田|2007||pp=91-92|p=}}。1990年代に検証が進み、江戸時代の文書としてはありえない用語がみえること、そもそも筆跡が和田喜八郎のものと一致することが判明し、偽書であることが明らかになった{{Sfn|原田|2020|pp=45-47|p=}}。
昭和52年([[1977年]])、丹代定太郎と小島末喜により、[[伊勢神宮]]・[[神宮文庫]]所蔵の神代文字文献が発見された。阿比留文字・阿比留草文字・阿波文字などにより記され、中臣鎌足・稗田阿礼・菅原道真・後醍醐天皇などの銘がつけられていたが、山田孝雄の調査により、これらは明治初年ごろ、国学者であり神宮教院の創設者でもある[[落合直亮]]がつくったものが、教院の閉鎖時に神宮文庫におさめられたものであることがわかった{{Sfn|原田|2007||pp=109-113|p=}}。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[神代文字の一覧]]
== 外部リンク ==
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{{Normdaten}}
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[[Category:神代文字|*]]
[[Category:オカルト]]
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