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'''ビドゴシチ住民殺害事件'''(ビドゴシチじゅうみんさつがいじけん)は、[[1939年]][[9月]]の[[ナチス・ドイツ]]による[[ポーランド侵攻]]開始から10日間のうちに[[ポーランド]]西北部の都市[[ブィドゴシュチュ|ビドゴシチ]](Bydgoszcz)とその周辺で発生した住民殺害事件である。以下、血の日曜日事件と呼称する。
{{出典の明記|date=2023年1月}}{{Otheruses|1939年に[[ブィドゴシュチュ]]で発生したブロンベルク血の日曜日事件|その他|血の日曜日事件}}
'''ビドゴシチ住民殺害事件'''(ビドゴシチじゅうみんさつがいじけん)は、[[1939年]][[9月]]の[[ナチス・ドイツ]]による[[ポーランド侵攻]]開始から10日間のうちに[[ポーランド]]西北部の都市[[ブィドゴシュチュ|ビドゴシチ]](Bydgoszcz)とその周辺で発生した住民殺害事件。大きく分けて次の2つの事件から成る:
#[[9月3日]]に起こった、[[ポーランド軍]]およびポーランド系ポーランド人住民と、ドイツ系ポーランド人住民の間で起こった戦闘・殺害事件。戦時中のナチスの執拗なプロパガンダにより一般に'''ブロンベルク血の日曜日事件'''として知られる([[ビドゴシチ住民殺害事件#第1の事件|第1の事件]])。
#[[9月9日]]から[[9月10日]]にかけて起こった、[[ドイツ]]のさまざまな組織によるポーランド系ポーランド人住民虐殺事件([[ビドゴシチ住民殺害事件#第2の事件|第2の事件]])。第1の事件よりはるかに規模が大きい。
 
ドイツの自衛団が退却するポーランド軍に対して狙撃した後、ポーランド側は在ポーランド・ドイツ人に対しての反感があり、ビドゴシチ市陥落後、[[ドイツ国防軍]]や自衛団によって、ポーランド人の人質を報復として処刑した。これら一連の出来事は、ドイツ人とポーランド人双方の民間人で死者を出すに至った。ポーランドの[[国家記銘院]]は、ドイツ人の民間人に254人の犠牲者が出て、ポーランド側の民間人は、合計で106人の犠牲者(民間人が86人、ポーランド兵が20人)が死亡した。約600人から800人のポーランド人の人質が市の陥落後処刑されたとみられている。
== 歴史的背景 ==
[[ファイル:Poland 1939.png|thumb|right|300px|[[1939年]]の[[ポーランド]]。[[ブィドゴシュチュ|ビドゴシチ]](''Bydgoszcz'', ドイツ名ブロンベルク''Bromberg'')は西北部に位置する。]]
[[ブィドゴシュチュ|ビドゴシチ]]市周辺の地域は第一次[[ポーランド分割]]([[1772年]])まではポーランド領であり、[[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]として締結された[[ヴェルサイユ条約]]によって[[1920年]][[2月]]に再度ポーランド領となった。しかし[[ポーランド分割]]よりもはるか昔、何世紀も前から、ポーランド系住民とドイツ系住民は一つの共同社会を形成し、平和な関係を築いていた。
 
ドイツ軍が市を占拠した後、1200人から1300人のポーランドの民間人を[[タンネンベルク作戦]]の一環として、報復措置のため殺害した。処刑された出来事や場所は、死の谷と呼ばされている。殺害された者にはビドゴシチ市の市長である、レオン・バルチシェフスキが含まれていた。同市の50人のポーランド兵捕虜は、後にナチスによって、血の日曜日事件に参加したかどで銃殺刑に処された。
ドイツ系ポーランド人の多くは第一次世界大戦後にポーランド領となった地方から離れてドイツへ移住した。[[1910年]]の[[国勢調査]]ではビドゴシチ[[郡]]の全住民154,169人のうち68.4%にあたる105,504人がドイツ系であったが、[[1931年]]の国勢調査では同郡の全住民175,339人のうちドイツ系住民はその10.7%の18,793人にまで減少していた。[https://web.archive.org/web/20060525191040/http://raven.cc.ku.edu/~eceurope/hist557/lect11_files/11pic2.jpg]ドイツ系住民の急激な減少は、高等教育を受けたドイツ人の専門家(たとえば医師や弁護士など)がいなくなればポーランド新国家は不安定になるというドイツの[[国家主義]]的[[プロパガンダ]]の影響による部分もある。[[少数民族]]の諸権利に関するヴェルサイユ条約の付帯事項はポーランドによって完全に承認されたが、[[1934年]]に[[国際連盟]]に[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]が加盟すると、ポーランドはこの少数民族に関する付帯事項の承認を取り消した。しかし、ドイツとポーランドにおける少数民族の諸権利は両国の互いの友好関係に基づき保証されることになった。
 
血の日曜日という名称は、ナチスのプロパガンダが公式に命名したものである。これについては、「(前略)ブロムベルクで行なわれたドイツ人に対するポーランドの残虐さをニュースとして知らしめなくてはならない。血の日曜日というのは、常用単語として辞書に恒久的に掲載されなければならず、地球全周にも波及しなければならない。そのため、この単語には、常に下線を引いておかなければならない<ref name="Kunert"/>」という風に取り上げられている。
[[1930年代]]後半になるとポーランドとドイツの関係は悪化し、それに伴いポーランド西部に住むドイツ系少数民族は自分たちがポーランド社会に受け入れられていないと感じるようになった。ドイツ系ポーランド人はポーランド国内で[[第五列]]分子と理解されるようになった。
 
== 背景 ==
当時のポーランドではドイツ系住民が銃などの火器を所持することは完全に禁止されており、この違反は厳重な処罰の対象となっていたが、ドイツ系住民は[[自衛団]](''Selbstschutz'')を組織してドイツ本土から大量の銃砲を密輸して秘密裏に保持していたとされている。またドイツ系住民はドイツ本土から[[スパイ]]を招き入れたり、ドイツ本土に行って反ポーランド破壊活動の訓練をするなどしていた。[[ナチス・ドイツ]]の[[ポーランド侵攻]]時には、ポーランドに約2,700,000人いたドイツ系住民のうち25%がドイツに直接指揮監督された何らかのドイツ人少数民族組織に所属して多くが[[第五列]]活動に関わっておりそのうち82,000人が悪名高い[[自衛団]]の構成員だったと推定されている。
ビドゴシチは、1772年まで[[ポーランド・リトアニア共和国]]の一部であり、[[第一次ポーランド分割]]によって、[[プロイセン王国]]に併合された。ビドゴシチは、プロイセン王国の一部として、1871年[[ドイツ統一]]の影響を受け、[[ドイツ帝国]]に加えられた。[[第一次世界大戦]]終戦までは、ドイツ帝国であった。1920年2月、[[ヴェルサイユ条約]]によって、ビドゴシチは、[[ポーランド第二共和国]]([[ポモージェ県]]の行政区域)に加えられた。これによって、多数の民族ドイツ人が同市を立ち去り、ドイツへと移住した。戦間期にかけて、ドイツ人の人口は更に減少していた。
 
ドイツにおける、ナチス党の台頭は、ビドゴシチ市に大きな影響を与えた。ヒトラーは、[[フェルキッシュ]]運動に活力を与え、第一次世界大戦後にドイツ国外に居住しているドイツ人にアピールし、ナチス党の知識層へとリクルートした<ref>{{Cite book |last=Higgins |first=David R. |title=Behind Soviet Lines: Hitler's Brandenburgers capture the Maikop Oilfields 1942 |publisher=Bloobsbury |year=2014 |isbn=978-1782005995 |pages=9}}</ref>。少数のドイツ人が居住している他国を併合することによって、大ドイツ国を作り出すことがヒトラーの目標であった。1939年3月までに、この野望は、ドイツ-ポーランド国境の両国の残虐行為の告発や不信感、そして国家主義的感情の高まりにより、ドイツ-ポーランド両国の関係は悪化の一途につながる。ヒトラーは、ポーランドに対して、[[ポーランド回廊]]を要求し、ナチスの併合に対してのポーランド側の抵抗が民族間の緊張を誘発する。1939年のポーランド侵攻数ヶ月前から、ドイツ側の新聞やヒトラーらはポーランド当局がポーランド在住のドイツ人に対して、民族浄化の組織や容認をしていると非難するプロパガンダキャンペーンを国内外に対して行なった。
== 第1の事件 ==
[[1939年]][[9月1日]]に[[ナチス・ドイツ]]の[[ポーランド侵攻]]が開始されると、[[ポーランド回廊]]の基部に位置する[[ブィドゴシュチュ|ビドゴシチ]]市とその周辺は西方のドイツ本土から進撃するドイツ第4軍と東方の[[東プロイセン]]から進撃するドイツ第3軍の一部に[[挟撃]]される危険が生じ、同地北部周辺の河川沿い([[ノテチ川]]と[[ヴィスワ川]])に広く防衛線を張っていたポーランドの[[ポメラニア軍]]は戦術的観点から撤退を決定した。[[9月3日]]午前、同軍の第9[[歩兵]][[師団]]と第27[[歩兵]][[師団]]がビドゴシチ市街地を通り過ぎようとしていたとき、兵士の隊列やその近辺で隊列を見物していたポーランド系ポーランド人住民に対し、ドイツの[[第五列]](おそらく[[自衛団]]員)と思われる分子が建物の屋根や教会の塔から銃撃をしてきた。それにポーランド兵が応戦する形となった。のちの[[ニュルンベルク裁判]]の場ではこの日1日でポーランド側に238人、ドイツ系住民の側に223人の死者が出たとされた。
 
1939年9月1日のポーランド侵攻後も、ポーランド、殊にビドゴシチにおいて、民族ドイツ人が迫害に遭っていたということを、ナチス党の新聞に掲載し続けていた。
ビドゴシチではこのときの銃撃に応じるかたちで、ポーランド側の[[兵士]]やポーランド系住民が反ポーランド破壊活動や[[ゲリラ]]活動に加担していると疑われるドイツ系ポーランド人の家々に家宅捜索をし、多くのドイツ系住民を逮捕した。[[ナチス・ドイツ]]の情報省によって[[1940年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ニューヨーク]]で発行された「''Polish Acts of Atrocity Against the German Minority''(ドイツ系少数民族に対するポーランド人の残虐行為)」という本によると、この日ポーランド兵やポーランド系住民はあちこちで婦女子を含め無実の人々に対する残酷な私刑を行ったとされているが、これは中立的な資料ではなく、真相は明らかではない。
 
== 事件の発生 ==
翌日の[[9月4日]]に急遽ポーランド軍によって[[軍法会議|軍事法廷]]が開かれ、逮捕者のほとんどが即決で死刑となった。その後ポーランド軍はビドゴシチを放棄して退却した。
9月初旬、ナチスドイツの諜報部[[アプヴェーア]]に所属するエルヴィン・フォン・ラハウゼンによる報告書によると、ドイツの破壊工作員はビドゴシチの前線後方で損害を被っていた<ref name="Tomasz Chińciński page 181">"Niemiecka dywersja w Polsce w 1939 r. w świetle dokumentów policyjnych i wojskowych II Rzeczpospolitej oraz służb specjalnych III Rzeszy" Tomasz Chińciński, page 181 Pamięć i Sprawiedliwość 4/2 (8), 159-195. 2005</ref><ref name="W"/><ref name="meldunki"/>。アプヴェーアによって調整されたビドゴシチの住民による作戦は、アプヴェーアのアーカイブに作戦報告と計画が文書化されている。ドイツ側のアーカイブには、破壊工作グループには、次の任務が与えられていた。ドイツ人協会の主要事務所、ドイツ郵便局の旅券発行事務所、ドイツ人私立学校を爆破すること、並びにドイツの劇場と{{仮リンク|ポーランド青年ドイツ党|de|Jungdeutsche Partei in Polen}}への放火を行なうこと<ref name="Tomasz Chińciński page 181"/>。これらの作戦は、SSによって調整並びに組織されていることが文書化されている<ref name="Tomasz Chińciński page 181"/>。加えて、ブレスラウのアプヴェーアの記録によると、ビドゴシチにはアプヴェーア特殊破壊工作部隊があり、発電所の無力化とイノヴロツワフとトルン間の通信網の断絶を任務としていた<ref name="Tomasz Chińciński page 180">"Niemiecka dywersja w Polsce w 1939 r. w świetle dokumentów policyjnych i wojskowych II Rzeczpospolitej oraz służb specjalnych III Rzeszy" Tomasz Chińciński, page 180 Pamięć i Sprawiedliwość 4/2 (8), 159-195. 2005</ref>。
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-2008-0415-505, Bromberg, Leichen getöteter Volksdeutscher.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|殺害されたドイツ系住民を検分する[[ドイツ国防軍]]関係者]]
ドイツ系住民の死者数についてはドイツ側の保守的な歴史家が1,200人から2,000人の間のさまざまな数字を挙げている。この数字は基本的に[[ナチス・ドイツ]]作成の資料を元にして算出されたものと思われ、ポーランド側による無実の人々に対する理由なき殺害とされている。一方、ビドゴシチ生まれのドイツ人の歴史家[[ヒューゴ・ラスムス]](Hugo Rasmus)はビドゴシチ市の住民台帳を元に[[ナチス・ドイツ]]調査による犠牲者リストを参照して詳細な再調査をしたところ、この事件におけるビドゴシチのドイツ系住民の犠牲者は223人でなく358人が判明し、この中には39人の女性と55人の老人が含まれていたことが分かったと主張している<ref>Pomerellen Westpreußen 1919-1939, F.A.Herbig Verlagsbuchhandlung; München Berlin 1989および, Zur Bewertung der September-Ereignisse 1939 in Polen, besonders in Bromberg, Beiträge zur Geschichte Westpreußens, Bd. 18, Copernicus-Vereinigung für Geschichte und Landeskunde Westpreußens, Münster/Westf</ref>。しかしこれらの死者が無実だったという確証もない。さらに当日はビドゴシチとその周辺でドイツ空軍による激しい無差別攻撃が行われており、先述のようにポーランド軍とドイツ系住民との戦闘や翌日のポーランド軍の[[軍法会議|軍事法廷]]の判決による処刑もあったので、この事件での死者についての中立的な資料は少ない。無実のドイツ系住民が犠牲になったのか、もし犠牲者があるならばその数はどれくらいになるのかについては現在でも歴史家やその他の研究者の間で大きく見解が分かれている。
 
これら、ビドゴシチの破壊工作部隊に加えて、アプヴェーアは同市に準軍事組織がいることを記録している。ドイツ連邦軍事公文書館にある記録によれば、現地のクライスというドイツ人が指揮を執る武装組織には150人の人員がおり、この組織はポズナンの大規模な武装組織の一部であり、合計すると2,077人の人員がいた。この組織に加えて、オットー・マイスターというドイツ人が指揮を執る10人の武装部隊がビドゴシチにあり、ヴロツワフのアプヴェーア支局より命令を受けていた<ref name="Tomasz Chińciński page 180">"Niemiecka dywersja w Polsce w 1939 r. w świetle dokumentów policyjnych i wojskowych II Rzeczpospolitej oraz służb specjalnych III Rzeszy" Tomasz Chińciński, page 180 Pamięć i Sprawiedliwość 4/2 (8), 159-195. 2005</ref>。ポーランド侵攻直前の8月末までに、ポーランド警察が、爆発物やナチスの腕章や銃を発見し、何人かを逮捕していた<ref>Der "Volksdeutsche Selbstschutz" in Polen 1939/1940 Christian Jansen, Arno Weckbecker page 26-27, page 2010</ref>。
[[1939年]][[9月8日]]付のDie Deutsche Rundschau誌はビドゴシチで[[9月3日]]に起こったこの事件を無実のドイツ系住民に対するいわれなき残虐行為と断じ、これに対し'''ブロンベルク血の日曜日事件'''([[ドイツ語]] ''Der Bromberger Blutsonntag'')と名づけた。[[1939年]][[9月3日]]は[[日曜日]]であり、ブロンベルク(Bromberg)とはビドゴシチの[[ドイツ語]]名である。[[ナチス・ドイツ]]はこのブロンベルク血の日曜日事件という印象的な造語を利用し、反ポーランド[[プロパガンダ]]のため国内外にこれを広く宣伝した。この事件におけるドイツ系住民の死者数も約5,500人とかなり大幅に誇張されて広められた。
 
9月2日から3日にかけて、ポーランド軍の制服に変装したドイツの破壊工作員は、ビドゴシチの2つの地区の住民に対して、「ポーランドは敗北したから退避しろ」と呼びかけ、その結果、多数の市民がパニックになり、逃げだした。混沌とした状況によって、ポーランド軍の移動は阻まれてしまった<ref name="www2.um.bydgoszcz.pl">Historia Bydgoszczy, Tom II, część druga 1939-1945, pod redakcją naukową Mariana Biskupa, Bydgoszcz 2004 Wydarzenia 3 i 4 września 1939 r. w Bydgoszczy - "Blutsonntag" [http://www2.um.bydgoszcz.pl/binary/Wydarzenia%203%20i%204%20wrze%C5%9Bnia%20w%20Bydgoszczy_tcm29-22266.pdf]</ref>。
== 第2の事件 ==
プロンベルク血の日曜日事件が宣伝された翌日の[[9月9日]]から[[9月10日]]([[日曜日]])にかけて、実際の死者数やその他の被害者数では[[9月3日]]の事件をはるかに上回った「'''もう一つのブロンベルク血の日曜日事件'''」が発生した。この両日までにすでにポーランドの[[ポメラニア軍]]はビドゴシチ市を離れていた。代わって同市内に入城していたドイツの第4軍の第3[[兵団]]やそれに付随してやってきた様々な準軍事組織の部隊([[自衛団]]''Selbstschutz''など)や警察部隊(ベルリン第6警察大隊など)は[[9月3日]]の事件の復讐と称して、市内や周辺の各地でおよそ3,000人のポーランド人を無作為に選んでは広場で銃殺するなどの様々な無差別殺人を行った。
 
9月3日の朝までには、現地でポーランド人と良好な関係を築いていた少数のドイツ人が、「何か悪いことが起きる」ため、隠れるようにと警告を発し、午前10時まで隠れるという条件で避難所を提供したが、何が起きるかの詳細については明かせないと言った<ref name="www2.um.bydgoszcz.pl"/>。
当時市内にいた[[イギリス人]]女性の目撃談によると、この事件での最初の犠牲者は12歳から16歳の[[ボーイスカウト]]の子供たち約100人だったという。彼らはみなマーケット広場に連れて行かれ壁沿いに立たされて問答無用で銃殺された。彼らに急いで[[病者の塗油|終油の秘跡]]を執り行おうとしていた献身的な[[司祭]]もまたそこで撃たれた。この司祭は全身の5箇所に深い傷を負った。あるポーランド人は、子供たちが死んで横たわっているこの光景は自分の見たどんな惨事よりも悲しいことだったと語ったという。その後1週間にわたってポーランド人に対する殺人が続いた。ビドゴシチの主な小売商や貿易商のうち34人と、街の名士の多くが殺害された。人々は無作為に選別された50人から100人程度のグループ単位でマーケット広場に連れてこられ、次々に銃殺された。この広場は機関銃をもつドイツ兵によって包囲されていた。
 
ポーランド陸軍は、ビドゴシチ経由で退却した際<ref name="meldunki"/>、ドイツの不正規兵より攻撃を受けた。イギリス人の目撃者によると、退却中のポーランドの砲兵部隊がドイツ人によって屋内から狙撃されたとのことだった。ポーランド軍は応戦し、イエスズ会の教会からも狙撃を受けた<ref name="ismaning"/>。その後、双方に死傷者が発生した。ドイツの不正規兵の捕虜は即座に処刑され、暴徒と化した群衆によってリンチされたことも目撃されている<ref name="meldunki"/><ref name="ND"/><ref name="Blanke580-582"/>。2004年のポーランドの調査によると、ポーランドの部隊は、少数民族であったドイツ人とドイツ軍情報部(アペヴェーア)によって撃たれたと結論付け、40人から50人のポーランド軍と100人から300人のドイツ人が死亡した<ref name="Auftakt zum Vernichtungskrieg. Die Wehrmacht in Polen 1939"/>。
次には[[イエズス会]]の会員たちが襲われた。ドイツ兵は[[教会]]の建物に押し入り、略奪を行った。[[司祭]]たちはある物置小屋に連れて行かれた。そこはすでに[[ユダヤ人|ユダヤ教徒]]が押し込められていた。そこで彼らはみな暴行を受けた。ビドゴシチ周辺のポモージェ([[ポメラニア]])地方では650人の聖職者のうち630人は銃殺されるか強制収容所に送られた。シロンスク([[シレジア]])地方の[[ヴロツワフ]]では聖職者のうち49%が殺害された。[[ヘウムノ]]地方では48%、[[ウッチ]]地方では37%、[[ポズナニ]]地方では31%、[[ワルシャワ]]では212人の聖職者が殺害された。
 
== ドイツ側によるプロパガンダ ==
ビドゴシチ精神病院では入院患者約3,700人が全て銃殺された。
[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の[[宣伝省]]は、ドイツのポーランド侵攻の指示を得るためにこの事件を利用した。イギリスの歴史家[[イアン・カーショー]]は下記の様に書き留めている。
 
{{quote|ドイツ側のプロパガンダは、民族ドイツ人への攻撃は、報復と見なされた初日の出来事を凌駕する民族浄化政策のために利用された。ドイツ側は、1939年11月に5,400人が9月事件(ブロムベルク血の日曜日を含む)で死亡したと主張した。そして、1940年2月には、ヒトラー自身の指示によって、この人数は約10倍の58,000人に引き上げられた。最も信頼のおけるデータとして、暴虐、強行軍、爆撃、砲撃などによる民族ドイツ人の死者数は4,000人であろう。これら残虐行為は、多かれ少なかれ、混乱状態やドイツ軍侵攻による恐怖感によって、自然発生的な憎悪によって引き起こされたものである。これら民族ドイツ人に対してなされた残虐行為は、ドイツ側がポーランド人の奴隷的存在以外を根絶することと、ドイツ支配による計算された残虐な扱いを比較しても、正当化できないものであった<ref>{{cite book|first=Ian|last=Kershaw|title=Hitler 1936-1945: Nemesis|date=25 October 2001|publisher=Penguin Books Limited|isbn=978-0-14-192581-3|page=242}}</ref>。}}
ドイツ側はさらに[[1939年]]末までに13,000人のポーランド人を、ポーランド北部に建設された、のちに[[強制収容所 (ナチス)|絶滅収容所]]の1つとなる[[シュトゥットホーフ強制収容所]]へと送った。このときまでに総計10,500人のポーランド人がビドゴシチとその周辺で殺害されたとされる。[http://www.yale.edu/lawweb/avalon/imt/proc/03-22-46.htm]
 
1939年10月4日のヒトラーの極秘指令では、1939年9月1日から10月4日にかけて、ドイツ人によって行われた全犯罪は訴追されないものとすると明示されていた<ref name=":0">Diemut Majer, Non-Germans Under The Third Reich, p.424</ref>。
ドイツのポーランド人に対するこのときの迫害・虐殺行為は[[1907年]][[10月18日]]に締結された[[ハーグ陸戦条約]]の第三款「敵國ノ領土ニ於ケル軍ノ權力」諸事項など、[[戦時国際法]]に違反する伝統的な意味での[[戦争犯罪]]と位置づけられる。
 
1939年から1940年にかけてのドイツ国防軍戦争犯罪局の調査によると、これら一連の出来事は、ポーランド軍内でのパニックと混乱によって引き起こされた事件であるとしている<ref name="wehrmachtuntersuchungsstelle"/>。ドイツ国防軍の調査には、捕虜となったポーランド兵、ビドゴシチの民族ドイツ人と市周辺の村やポーランドの民間人が含まれていた。犠牲者の遺体が掘り起こされ、死因には、軍用ライフルが使われた可能性が考慮された<ref name="gerichtsmedizin"/>。
== 1939年9月のポーランドにおける犠牲者 ==
=== ドイツ系住民 ===
[[ポーランド侵攻]]が始まると多くのドイツ系ポーランド人は東方へ徒歩での移動を強いられた。ドイツ側はこのとき多くのドイツ系ポーランド人が故意に殺害されたと主張していたが、この期間はポーランド国内のさまざまな場所で[[ドイツ空軍]]による[[空襲|無差別爆撃]]があり、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]による激しい砲撃や路上の[[民間人]]の隊列に対する無差別の[[機銃掃射]]が行われたので、ポーランド側は亡くなった人々のほとんどはそういった戦争状態による犠牲者だと主張した。実際に数多くのドイツ系ポーランド人が証人となり、彼らに対するドイツ機による爆撃や機銃掃射、ドイツ陸軍の砲撃があったことを証言している。
 
== ドイツの報復と虐殺行為 ==
[[ナチス・ドイツ]]は[[1939年]][[11月]]にポーランド侵攻時のドイツ系ポーランド人の死者数を5437人と結論したが、その後は国内外へ向けて反ポーランド感情を煽る[[プロパガンダ]]政策の推進のため[[1940年]][[2月]]にはその死者数をさらに大幅に誇張して58,000人とし、最終的には60,000人以上として宣伝した。これらの数字はドイツ[[外務省]]を通じて発表された。しかし現在では、当時のドイツ系住民の死者数は亡くなった理由如何にかかわらずポーランド全土で5,000人程度と推定されている。
この事件の結果、ドイツによる報復とポーランドの民間人の大量処刑が行われた<ref name="ChristFren"/><ref name="ND"/>。血の日曜日事件に対する報復として、多数のポーランド人がアインザッツグルッペンや、武装親衛隊やドイツ国防軍によって処刑された<ref name="ChristBrown29"/>。ドイツの歴史家クリスティアン・ライツ・フォン・フレンツによると、876人のポーランド人が1939年終わり頃までに、ドイツの法廷で裁かれた。87人の男性と13名の女性が控訴権無しの判決を受けた<ref name="ChristFren"/>。ポーランドの歴史家、チェスワフ・マダジッチは、血の日曜日事件に関連して、120人が処刑され、ドイツ兵がポーランドの狙撃兵に狙われたのち、20人の捕虜が処刑されたとしている<ref name="ChristFren"/><ref name="ChristBrown32"/>。
 
ドイツ側の報告によると、ポーランドの狙撃手が数日間にわたり、ビドゴシチにいるドイツ軍部隊を攻撃していた(ただし、ポーランド側は、これについては確認していない)<ref name="google"/>。ドイツ側の総督であるウォルター・ブレーマー将軍(後方軍地域司令官)は<ref name="fsnet"/>、数日間にわたり80人のポーランド人の人質の処刑を命じた<ref name="ChristFren"/>。9月8日までには、200人から400人のポーランド人が殺害された<ref name="ChristBrown29"/>。リチャード・ローデスによると<ref name="nytimes"/>、多数の[[ボーイスカウト]]が市場にある壁に立たされ、射殺された。最後の晩餐を執り行うために、駆け付けた牧師も撃たれ、5か所に銃創を負った。虐殺は1週間続き、街にいた34人の主だった商人は撃たれ、その他多くの有力者も射殺された。
=== ポーランド系住民 ===
[[ファイル:Public execution of Polish hostages in Bydgoszcz (1939).jpg|サムネイル|ドイツ側に見せしめとして処刑されるポーランド人|250x250ピクセル]]
開戦からおよそ1週間のうちに531の街や村が放火され焼き尽くされた。この間、軍や警察などに属するドイツの様々な部隊が714箇所で16,376人のポーランド人を殺害したとされている。殺害されたポーランド人のほとんどはキリスト教徒(非ユダヤ教徒)であった。この[[戦争犯罪]]行為のうち6割は[[ドイツ国防軍|国防軍]]によって行われた。その他、[[タンネンベルク作戦]]のような計画的な[[大量虐殺]]が行われ、[[空襲|無差別爆撃]]([[ワルシャワ]]や[[ウッチ]]の大[[空襲]]が有名)、激しい砲撃、無差別な[[機銃掃射]]によって多くの[[民間人]]が殺害された。
 
多くのポーランド人、とりわけ知識階級に属する人やユダヤ人は、強制移送か即座に殺されるかした<ref name="ChristBrown32"/>。ビドゴシチの20,000人以上のポーランド人(同市の14 %の人口に相当)は、射殺されるかドイツ軍が占領中に強制収容所で死んだ<ref name="republika"/>。
[[ポーランド侵攻]]の期間において特筆すべきは、ドイツ系住民によって組織され、ポーランド全土で無秩序な残虐行為を犯したとして悪名高い[[自衛団]](''Selbstschutz'')の破壊活動によるポーランド人犠牲者も多数にのぼることである。自衛団はその目に余るほどの残虐行為がかえって[[ナチス・ドイツ]]のポーランド占領政策の利益に反すると考えられるようになり、[[ポーランド侵攻]]作戦の終了して間もない[[1939年]][[11月26日]]に当局によって解散が命じられた。翌年春までにすべての自衛団組織は解散させられた。
 
== 学術界での論争 ==
ポーランド侵攻作戦が終了する[[1939年]][[10月]]初旬までの期間におけるポーランド系ポーランド人民間人の犠牲者数は150,000人に上ると見積もられている。
血の日曜日事件における、犠牲者の正確な数については、今なお論争が続いている。ピーター・アウリッヒ(ドイツ人ジャーナリストでピーター・ナザルスキーのペンネーム)はビドゴシチでのドイツ人の死亡者を366人とし<ref name="Blanke580" />、ヒューゴ・ラスマスは少なくとも415人としている<ref name="ChristFren" />。ポーランド人歴史家のウウォジミエシュ・ヤストジェンブスキとチェスワフ・マダイチクは、民族ドイツ人の死亡者数は103人(ヤストジェンブスキによる)と300人(9月3日に150人死亡、その後の数日間で残りが死亡)と推定している<ref name="ChristBrown"/>。
ポーランドの歴史家は、これら死亡者数については戦闘中に起きた犠牲であり、民間人の死亡者のほとんどは、市街地戦という状況につきものの出来事とすべきであるとしている。彼らはまた、民間人の犠牲はドイツ空軍による攻撃によって発生したものであるかもしれないとも述べている<ref name="ChristFren" />。ドイツ空軍によって民間人に犠牲が出たことは、ドイツ人によって目撃されている<ref name="wydarzeniach"/>。ナチスのプロパガンダはポーランドにおける少数のドイツ人をポーランド側は敵視しているということを補強し、ポーランド侵攻中は少数のドイツ人が軍隊を支援していると報じた。これによって、ポーランド側は誤解を助長することになり、ポーランド人は少数のドイツ人を積極的に敵視することを期待していたからである<ref name="HarryGordon"/>。
 
更なる大きな論点として-ポーランドの歴史家が示唆したように-ポーランド軍への攻撃の口火を切った第五列のドイツ人がいたかという問題である(もしいたのであれば、ビドゴシチのドイツ人市民であったのかそうでなかったのか)、また、-ドイツの歴史家が議論するように-ポーランド軍(やパニックに陥った市民)が混乱の最中、過剰反応し、ドイツ人の民間人を標的としたのか<ref>Konrad Piasecki [http://www.rmf24.pl/tylko-w-rmf24/wywiady/news-wlodzimierz-jastrzebski-to-co-sie-zdarzylo-w-bydgoszczy-mial,nId,138894 "Włodzimierz Jastrzębski: To co się zdarzyło w Bydgoszczy miało podłoże emocjonalne."] September 1, 2003</ref>。この議論については、ドイツ側の文書を精査したところ、ナチスドイツの諜報機関によって監督されたビドゴシチの陽動や破壊工作のグループの存在が確認されたことによって解決された<ref>Niemiecka dywersja w Polsce w 1939 r. w świetle dokumentów policyjnych i wojskowych II Rzeczpospolitej oraz służb specjalnych III Rzeszy" Tomasz Chińciński, Pamięć i Sprawiedliwość 4/2 (8), 159-195. 2005</ref>。戦闘中によって死亡したドイツ人は歴史家によって、シュチェチン出身のオットー・ニーフェルトというアペヴェーアの諜報員であったことが確認された<ref name="www2.um.bydgoszcz.pl"/>。ピーターによる証明は、ハリー・ゴードンによって、最も確度が高いドイツ側の証明とされる<ref name="HarryGordon" />。ただ、ピーターの説はポーランド側では受け入れられておらず<ref name="schubert89-46"/>、恐らく、ナチス側によって収集された目撃証言を無差別に使用したためとみられる<ref name="kees-p40"/>。ピーターによると、警察部隊がビドゴシチから撤収し、興奮状態にあるポーランド人が多くのドイツ人がポーランド兵への攻撃を仕掛けたことについて非難し、自分たちの身を守ろうと立ち上がったポーランド人を処刑したとしている<ref name="HarryGordon" />。 ラスムスは、このようなことが起きた原因を、混乱した状況であったことと、ビドゴシチに駐在していたポーランド軍が無秩序であったこととしている<ref name="Blanke580" />。
== その後の調査 ==
[[ナチス・ドイツ]]による[[ポーランド侵攻]]時にビドゴシチで起こった事件に関しては、ポーランドやドイツの大学などの研究機関が共同で調査を行っているが、その他にポーランドではナチス・ドイツの侵略と社会主義時代の国家安全保障に関する文書を収集・保管し後世に伝えるため[[1998年]]に設立された[[国家記銘院]](''Instytut Pamięci Narodowej'', 略称IPN, 国家記憶院とも訳される)がドイツの様々な研究機関などと共同で調査を進めている。
 
フォン・フレンツは、ビドゴシチでは、急速に退却する兵士の混乱や、二度にわたるドイツ軍による空襲後のポーランド人での混乱や治安の悪化や、前日のドイツ軍の少人数から成る偵察部隊の発見によってこれらの出来事につながったのだと記している<ref name="ChristFren" />。彼は、ナチスドイツの民間人の犠牲者と報告書を引用し、後にナチスが現場に招へいした赤十字社によって裏付けられた<ref name="ChristFren" />。フォン・フレンツはまた、ドイツ人に対しておこなわれた残虐行為については、ポーランドの第五列による仕業と同じくらい信用できないものであるとしている<ref name="ChristFren" />。作家のブランケは、血の日曜日事件への参画を話していた民族ドイツ人は知られていないとしているが、2007年までに発見されたナチスの文書では、援助、物資や医療品が、ドイツの破壊工作員とその家族に対して付与されていたことがわかっている<ref name="Blanke580"/><ref name="bydgoszcz.wyborcza.pl">[http://bydgoszcz.wyborcza.pl/bydgoszcz/1,35590,4456828.html] Historycy wytropili dywersantów
== その他 ==
Jacek Gałęzewski 03 September 2007 Gazeta Wyborcza</ref>。戦後の協力裁判では、血の日曜日事件に関して、民族ドイツ人で裁かれたものはいなかった<ref name="ChristFren" /><ref name="HarryGordon" />。第五列説に関して行われた別の反論では、ポーランド軍の部隊は、ドイツの正規軍の先遣部隊によって狙われたか、あるいは集団撤退の中で混乱状態に陥ったポーランド兵によって射撃されたとするものである<ref name="Blanke580"/>。フォン・フレンツは、ポーランド軍と民間人がドイツ人民間人への虐殺は、混乱によって引き起こされたものであるとしている<ref name="ChristFren" />。ポーランドの歴史家は、ドイツの歴史学が、あくまでもナチスドイツを出典としており、ポーランド側に多数存在する出典を無視していると考えている<ref name="historiografia"/>。
[[1996年]]にドイツのゼブラ・フィルム(''Zebra Film'')とポーランドの公共放送ポーランドテレビ[[グダニスク]]支局(''TVP Gdansk'')の共同で、「ブロンベルク血の日曜日事件」(''Der Bromberger Blutsonntag'')という[[ドキュメンタリー]]番組が制作された。この番組の中では、何世紀もの間続いていたブロンベルク(ビドゴシチ)におけるドイツ人とポーランド人の平和な共同生活は大量虐殺によって終わってしまった、と述べられている。
 
ポーランドの歴史家、マダイチク、ヤストジェンブスキ、カロル・マリアン・ポスピエザルスキー、リチャード・ウォーといった歴史家は、虐殺は、民間人に扮した民族ドイツ人がポーランド兵に対して(ヤストジェンブスキは、ドイツ人追放組織と関わるようになり後に見解を変えている<ref>{{cite web|url=http://www.rp.pl/artykul/61991,355527_Krwawiaca_pamiec.html|title=Krwawiąca pamięć|date=August 29, 2009|publisher=Rzeczpospolita|accessdate = 2024-05-16|language=pl}}</ref>)、発砲したことが引き金になってしまったとしている。ポーランド人は、これに対しての報復措置として、捕虜を処刑した<ref name="Blanke580" /><ref name="ChristBrown" /><ref name="ChristBrown2"/>。ポーランド側の歴史家は、ナチスのトップシークレットのヒムラー作戦(8月31日から9月1日に発生)を、ポーランドがドイツへ侵略行為を行なったと錯覚させるために計画されたものであったと指摘している<ref name="WirtzGordon"/><ref name="Lightbody"/>。このように、[[グライヴィッツ事件]]や、ビドゴシチでの事件は、ポーランドの信用を失墜させるための大がかりな計画の一部であったと主張されている<ref name="JK"/>。そして、ドイツの第五列の工作員(またはより高位のナチス指導者)が、ナチスのプロパガンダを煽る手段として、ドイツ民間人に被害が出るように故意に計画した可能性を論じている<ref name="W" /><ref name="pospieszalskim"/><ref name="wydawnictwo"/>。この議論については批判があり、ドイツ人がプロパガンダのために、自らの身を犠牲にしたのだろうかという疑問を提示している<ref name="HarryGordon" />。
== 参考文献 ==
 
<references/>
== 直近の議論 ==
ポーランドの歴史家の間での直近のコンセンサスは、この事件は、ドイツ民兵によるポーランド人とポーランド軍への攻撃であったというものである<ref>[http://www.rp.pl/artykul/61991,355527_Krwawiaca_pamiec.html] ''Krwiawiaca Pamiec'' Rzeczpospolita 28.09.09</ref>。
 
2004年には、歴史家のトマシュ・チンチンスキーは、国立追憶研究所の出版物で、血の日曜日に関する研究を要約し、歴史家の大多数は、ビドゴシチのドイツ市民と第三帝国からやってきた諜報員による反乱が起きたという点で意見が一致していることを確認した<ref name="ceeol"/>。彼は、ドイツ軍によって、1939年9月に陽動作戦が行われた詳細かつ新しい証拠を記載した著作を出版した<ref name="ipn"/>。現地の少数の民族ドイツ人を含む、ドイツ人の第五列の行動に関して、ポーランド側には多数の目撃者がいるとしている。ポスピエサルスキはポーランド軍の部隊に対して、ドイツの民間人が発砲したというケースは46件あり、これについては、複数の目撃証言があると引用している<ref name="HarryGordon" />。ポーランド陸軍にも<ref name="meldunki" />、ドイツ側の文書にも、武装したドイツ系ポーランド人がその他の都市でも破壊活動を行なっていたことが確認されている<ref name="meldunki" />。ドイツの歴史家によると、もし第五列の隊員がいたとしても、ビドゴシチ出身者ではなく、ドイツからの侵入者であるとしている<ref name="meldunki"/>。目撃証言については、リチャード・ブランケによって、否定されている<ref name="meldunki"/>。2004年、チンチンスキーは大規模な陽動作戦が9月3日ビドゴシチにおいて、行われ、その前後に、周辺地域で小規模な事件が多数発生したというポメラニア地方のポーランド陸軍の非公開の報告書について議論した<ref name="meldunki" />。
 
ポーランドとドイツの多数の歴史家は、2006年9月4日に、ワルシャワにある、ドイツ歴史研究所で議論を行なった<ref name="panel"/>。チンチンスキーは、新しく発見されたアペヴェーアの文書を基に、ビドゴシチにおいて第五列と陽動作戦があったことを指し示した。ビドゴシチではいくつかの準軍事部隊がドイツによって組織されたとしており、ビドゴシチで発生したポーランド人による、民族ドイツ人に対してのリンチ事件を矮小化した事例を、ポーランド共産主義政権下における、歴史学の偏りであるとして議論した<ref name="panel"/>。ドイツの歴史家ハンス・エーリヒ・フォルクマンは、ドイツの歴史学の問題点を指摘し、戦後初期はナチス時代の影響を色濃く受けており、信頼性が元より低いことを指摘し、ビドゴシチの事件は、未だ政治目的のために利用されているとしている<ref name="panel"/>。2007年までに、ドイツの公文書を研究した後、エルヴィン・ラホーゼン将軍が、ビドゴシチにおける破壊活動を称賛し、彼らに物資と医療品の支援を行なうよう手配していた文書が発見された<ref name="bydgoszcz.wyborcza.pl"/>。ドイツの歴史家、ヨッヘン・ベーラーは、2006年に出版した自身のポーランド侵攻に関する著作において、ドイツ公文書館よりポーランド兵がアペヴェーアの諜報員と民族ドイツ人によって攻撃されたことを示す文書が発見されたと記している<ref>Jochen Böhler: Auftakt zum Vernichtungskrieg. Die Wehrmacht in Polen 1939; Frankfurt: Fischer TB, 2006; S. 136, Anm. 577; {{ISBN|3-596-16307-2}}. Neue Dokumente und Archivquellen sollen belegen, dass polnische Truppen von Abwehr-Agenten und Angehörigen der deutschen Minderheit beschossen wurden</ref>。
 
== 参照 ==
{{reflist|2|refs=
<ref name="Auftakt zum Vernichtungskrieg. Die Wehrmacht in Polen 1939">{{cite book | first = Jochen | last = Böhler | title = Auftakt zum Vernichtungskrieg. Die Wehrmacht in Polen 1939 | publisher = Fischer Taschenbuch Verlag | location = Frankfurt | year = 2006 | isbn =3-596-16307-2 | language = de| page =144}}</ref>
 
<ref name="Blanke580">Richard Blanke, ''The American Historical Review'', Vol. 97, No. 2. Apr., 1992, pp. 580–582. Review of: Włodzimierz Jastrzębski,''Der Bromberger Blutsonntag: Legende und Wirklichkeit.'' and Andrzej Brożek, ''Niemcy zagraniczni w polityce kolonizacji pruskich prowincji wschodnich (1886–1918)''</ref>
 
<ref name="Blanke580-582">Richard Blanke, ''The American Historical Review'', Vol. 97, No. 2. Apr., 1992, p.580-582. Review of: Włodzimierz Jastrzębski,''Der Bromberger Blutsonntag: Legende und Wirklichkeit.'' and Andrzej Brożek, ''Niemcy zagraniczni w polityce kolonizacji pruskich prowincji wschodnich (1886–1918)''</ref>
 
<ref name="ChristBrown">Christopher R. Browning, ''The Origins of the Final Solution: The Evolution of Nazi Jewish Policy'', University of Nebraska Press, [https://books.google.com/books?id=jHQdRHNdK44C&dq=Das+Unternehmen+%E2%80%9EBromberger+Blutsonntag%22.&pg=PA441 p.441], footnotes 68 and 69</ref>
 
<!--<ref name="ChristBrown17">[[Christopher Browning]], ''The Origins of the Final Solution: The Evolution of Nazi Jewish Policy'', University of Nebraska Press, [https://books.google.com/books?id=jHQdRHNdK44C&pg=PA17&vq=Bydgoszcz&dq=Das+Unternehmen+%E2%80%9EBromberger+Blutsonntag%22.&source=gbs_search_s&sig=J61a9AXEPkplBNKMTRs0A0xKaTE p.17]</ref>-->
 
<ref name="ChristBrown2">Christopher R. Browning, ''The Origins of the Final Solution: The Evolution of Nazi Jewish Policy'', University of Nebraska Press, [https://books.google.com/books?id=jHQdRHNdK44C&dq=Das+Unternehmen+%E2%80%9EBromberger+Blutsonntag%22.&pg=PA441 p.442 (footnote 83)]</ref>
 
<ref name="ChristBrown29">Christopher Browning, ''The Origins of the Final Solution: The Evolution of Nazi Jewish Policy'', University of Nebraska Press, [https://books.google.com/books?id=jHQdRHNdK44C&q=Bydgoszcz&pg=PA29 p.29]</ref>
 
<ref name="ChristBrown32">Christopher R. Browning, [https://books.google.com/books?id=jHQdRHNdK44C&q=Bydgoszcz&pg=PA32 ''The Origins of the Final Solution: The Evolution of Nazi Jewish Policy''], University of Nebraska Press, p. 32-33</ref>
 
<ref name="ChristFren">Christian Raitz von Frentz, ''A Lesson Forgotten: Minority Protection Under the League of Nations'', LIT Verlag Berlin-Hamburg-Münster, [https://books.google.com/books?id=4MtobfZEYcEC&dq=Bromberger+blutsonntag&pg=PA252 p.252&nbsp;– 254]</ref>
 
<!--<ref name="German Editor">Nazi Conspiracy And Aggression, Volume VI. Office of United States Chief of Counsel For Prosecution of Axis Criminality. United States Government Printing Office: Washington, 1946, [http://www.nizkor.org/ftp.cgi/imt/nca/ftp.py?imt/nca/nca-06/nca-06-3469-ps-04 p.188]</ref>-->
 
<!--<ref name="German Editor-2">{{cite web|url=http://www.nizkor.org/ftp.cgi/imt/nca/ftp.py?imt/nca/nca-06/nca-06-3469-ps-04|title=Shofar FTP Archive File: imt/nca/nca-06/nca-06-3469-ps-04|access-date=January 1, 2011}}</ref>-->
 
<ref name="HarryGordon">{{cite book | first = Harry | last = Gordon | title = Orphans of Versailles: the Germans in Western Poland, 1918–1939 | url = https://books.google.com/books?id=80r6Mbnxf8IC&q=Bromberger+blutsonntag&pg=PA230 | page = 230 | isbn = 978-0-8131-1803-1 | year = 1993 }}</ref>
 
<!--<ref name="Hitler">[http://www.fcit.usf.edu/HOLOCAUST/resource/document/HITLER1.htm Address by Adolf Hitler - September 1, 1939]; retrieved from the archives of the Avalon Project at the Yale Law School.</ref>-->
 
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<ref name="pospieszalskim">[http://www.1939.pl/epizody/bydg02.htm "A jednak dywersja?"] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20080405152937/http://www.1939.pl/epizody/bydg02.htm |date=April 5, 2008 }} Rozmowa z prof. dr. hab. Karolem Marianem Pospieszalskim z Poznania, prawnikiem i historykiem, badaczem dziejów dywersji niemieckiej w Polsce, Express Bydgoski</ref>
 
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<ref name="schubert89-46">Günter Schubert (1989), p. 46</ref>
 
<ref name="wehrmachtuntersuchungsstelle">Alfred M. de Zayas: ''Die Wehrmachtuntersuchungsstelle. 6. erweiterte Auflage'', Universitas 1998</ref>
 
<ref name="wydarzeniach">Włodzimierz Jastrzębski, Relacje bydgoskich Niemców o wydarzeniach z września 1939 roku zebrane w latach 1958–1961 i wcześniej w Republice Federalnej Niemiec</ref>
 
<ref name="wydawnictwo">{{cite book | last = Wojan | first = Ryszard | title = Bydgoszcz Niedziela 3 września 1939 | publisher = Wydawnictwo Poznańskie | location = Poznań | year = 1959 |language=pl}}</ref>
 
}}
 
 
==参考文献==
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* {{cite book | first = Jochen | last = Böhler | title = Auftakt zum Vernichtungskrieg. Die Wehrmacht in Polen 1939 | publisher = Fischer Taschenbuch Verlag | location = Frankfurt | year = 2006 | isbn =3-596-16307-2 | language = de}}
* {{cite book | editor1-first= Tomasz |editor1-last= Chinciński | editor2-first= Paweł |editor2-last= Machcewicz | title = Bydgoszcz 3–4 września 1939 | publisher = [[Instytut Pamięci Narodowej]] | location = Warszawa | year = 2008 | isbn = 978-83-60464-76-2 | language = pl}}
 
== 関連項目 ==