牧野誠成

江戸時代末期の藩主 (1832-1869)

牧野 誠成(まきの たかしげ)は、丹後国田辺藩の第9代藩主。丹後田辺藩牧野家10代。

 
牧野誠成
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保3年5月19日1832年6月17日
死没 明治2年3月5日1869年4月16日
改名 誠成、寧斎(法号)
戒名 翠芳院殿昇誉天光静雲寧斎大居士
墓所 京都府舞鶴市字西の見樹寺
官位 従五位下内匠頭豊前守讃岐守河内守
幕府 江戸幕府大坂加番奏者番
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
丹後田辺藩
氏族 牧野氏
父母 牧野節成青山忠裕の養女・サダ
兄弟 誠成、寿松院、春林院、辰子、森川俊方正室ら
正室九鬼隆徳の娘・シゲ
弼成、波子、松平信好正室
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生涯 編集

天保3年(1832年)5月19日、第8代藩主・牧野節成の長男として生まれる。嘉永5年(1852年)6月5日、父が病気で隠居したため家督を継いで9代藩主となった。安政2年(1855年)2月に大坂加番に任じられる。元治元年(1864年)3月に二条城警備、7月の禁門の変では幕府方として参加して御所の警備を務めた。8月の第一次長州征討では14代将軍・徳川家茂の警護を務めている。これらの功績から、9月10日には奏者番に任じられた。

慶応2年(1866年)の第二次長州征討では、丹後近海の海防などを理由に本国待機を許されている。この頃から誠成は病に倒れるようになり、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に属している。明治2年(1869年)3月5日に田辺で死去。享年38。跡を長男の弼成が継いだ。

誠成自身は開国論者であり、開明的な藩主といわれている。藩政では砲台の建設、藩校の増改築に努めて学問を奨励した。また、能書家であったともいわれる。

系譜 編集