淨教寺 (奈良市)

奈良県奈良市にある寺院

淨教寺(じょうきょうじ)は、奈良県奈良市上三條町にある浄土真宗本願寺派の寺院である[1]。山号は九条山[1]本尊阿弥陀如来立像[1]

淨教寺
本堂
所在地 奈良県奈良市上三條町18
位置 北緯34度40分56.69秒 東経135度49分30.47秒 / 北緯34.6824139度 東経135.8251306度 / 34.6824139; 135.8251306 (淨教寺)座標: 北緯34度40分56.69秒 東経135度49分30.47秒 / 北緯34.6824139度 東経135.8251306度 / 34.6824139; 135.8251306 (淨教寺)
山号 九条山
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 寛元2年(1244年
開基 行延法師
中興年 1936年(昭和11年)
文化財 山門
掲示板舎
ソテツ
公式サイト 淨教寺ホームページ
法人番号 6150005000207 ウィキデータを編集
淨教寺 (奈良市)の位置(奈良市内)
淨教寺 (奈良市)
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歴史 編集

『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾庄司で、真野将監行延と名乗る知勇兼備の武士であった[1]浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという[1]

第6世の円誓には実子がなかったが、楠木正季の孫[注釈 1]が初陣にあたり深手を負い、円誓の養子となって空信と法名を授かり、第7世を継いだと伝わる[1][2]。このため当寺では「九耀菊水」を定紋に用いるようになったという[2]。また北朝光明天皇の勅願所となり、「称仏明院」の号を賜った[1]

11世行心の代、享禄3年(1530年)に、河内国から大和国添下郡冨庄西城村に移転し、また永禄2年(1559年)12世行春の際に、しばらく九条の里に移っていたという[1]。この頃より九条山と号するようになった[1]。また天正19年(1591年)、行春は石山合戦の際の忠節を顕如上人から讃えられ、御染筆にて「淨教寺」の号を賜り、石山本山内仏の本尊阿弥陀如来を拝領したという[1]

慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條で御赦免の寺地を頂戴し、現在地へ移転した[1][2]

享和2年(1802年)の本堂建立にあたっては、本如上人から斗栱・平三斗・肘木などを拝領し、大乗院門跡からの瓦料の寄進等もあり、桁行6間半、梁行5間半、丸柱の大本堂が成就した[1]。本山の役寺として、末寺との連絡や奈良奉行小泉城片桐氏などとの連絡に携わった[1]。寺には「御頭御斉頂戴之由来并御花御燈籠献上之次第・盆御燈籠御迎心得之記」など古い記録が残る[1]

1936年昭和11年)1月26日未明の火難で、本堂は全焼した[1]。24世島田義昭は本堂復興を計画し、1968年(昭和43年)10月19日、岸熊吉氏設計の大本堂が竣工した[1]

文化財 編集

登録有形文化財 編集

 
山門

山門 編集

江戸末期の建築[3]。均整の取れたつくりで、動植物・渦・雲等の彫刻が各所に施されている[3]

掲示板舎 編集

1933年(昭和8年)の建築[3]。小規模だが受木に彫刻が施されるなど、丁寧な造りである[3]

奈良市指定文化財 編集

 
ソテツ

ソテツ 編集

根株の周囲6.5メートル[3]。1本の株から25本もの幹が出ている珍しいもの[3]。樹齢約250年[1]

その他 編集

ギャラリー 編集

交通アクセス 編集

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 奈良市史 社寺編 p.203
  2. ^ a b c 公式サイト
  3. ^ a b c d e f 奈良市教育委員会設置案内板

参考文献 編集

  • 奈良市史編集審議会編『奈良市史 社寺編』、吉川弘文館、1985
  • 現地設置案内板(奈良市教育委員会)

関連項目 編集

外部リンク 編集