松平親貞 (大草松平家)
戦国武将。大草松平家当主
松平 親貞(まつだいら ちかさだ)は、戦国時代の三河国の武将。大草松平家2代当主。
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 親貞、親忠、親貞[1] |
墓所 | 大林寺[2] |
官位 | 左馬允[3][4] |
氏族 | 大草松平家 |
父母 | 父:松平光重[5][4] |
兄弟 | 親貞、信貞[注 1]、貞光、公親[7][8] |
略歴 編集
松平氏の庶流で、岡崎城主・西郷氏の跡を継承した松平光重の嫡男。延徳4年(1492年)父と連名で額田郡蓬生の武士・小島正秀へ同郡生平郷に所領を宛がっている[9][10]。明応5年(1496年)菅生の満性寺に領地を寄進している[注 2][1]。前後して父より岡崎城主を譲られたようで、文亀元年(1501年)大樹寺で行われた安祥城主・松平親忠の葬儀に参列し、直後に松平一族によって作成された大樹寺への禁制に「岡崎左馬允親貞」として連署している[注 3][8][11]。
親貞には嗣子がなかったため弟の信貞に岡崎城を譲ったとされ、永正8年(1511年)には信貞が史料上に現れる[4][2]。永正年間には今川氏親・伊勢宗瑞による三河侵攻を松平氏は辛うじて退けており、親貞はこの戦乱の最中に戦死したことが考えられる[2]。