祖父南湖・父南溟から薫陶を受け南画を学び、18歳のときには既に画家となっていた。父南溟と木挽町に居住した。慶応2年(1866年)6月17日病没。享年48。春木家菩提寺の浅草幡随院中智白院に葬られ、後に多磨霊園に改葬された。
夭折のために作品が少なく好事家の人気がある。
長男南渓・次男南峰・孫南江もそれぞれ画家として活躍した。
- 「四愛図[1]」安政6年(1859年)
- 「青緑山水図」
春木南湖画系図
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参考文献
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- 図録「夭折の南画家」佐野美術館、1991年
- 『大日本人名辞典』明治42年(1909年)
- 朝岡興禎『古画備考』