日本任侠道 激突篇』(にほんにんきょうどう げきとつへん)は、1975年1月15日に公開された日本映画。主演:高倉健、監督:山下耕作東映京都撮影所製作、東映配給。  

日本任侠道 激突篇
監督 山下耕作
脚本 高田宏治
出演者 高倉健
北大路欣也
大谷直子
渡瀬恒彦
渡辺文雄
竹下景子
藤山寛美
辰巳柳太郎
音楽 八木正生
撮影 古谷伸
編集 堀池幸三
製作会社 東映京都
配給 東映
公開 日本の旗 1975年1月15日
上映時間 95分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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概要

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1974年の晩秋まで、本来この枠は『山口組三代目』『三代目襲名』に続く「山口組三代目シリーズ」三作目で完結篇『山口組三代目・激突篇』を予定していた(山口組三代目 (映画) #2本で終わった経緯)。しかし『山口組三代目・激突篇』が製作中止になり[1]、代わりに急遽作られた実録でない任侠映画が本作である[2][3][4][5][6][7]。東映が実録映画を量産していた時期に[8][9]東映任侠映画の集大成として製作されたが[10][11]、本作の興行的失敗により東映任侠路線は事実上の終結を迎えたとされる[9][12]

あらすじ

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スタッフ

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出演

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製作

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決定までの紆余曲折

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1974年は東映作品に世論が沸いた[1]。その最たるものが「山口組三代目シリーズ」製作に於ける一連のトラブルで[1][13]、1974年11月27日、『山口組三代目』が商品券取締法違反等という報道に対して東映本社記者会見があり[1]岡田茂東映社長が事情説明をした後、合わせて『山口組三代目・激突篇』の製作中止を正式に発表した[1][6]。12月にも入ろうかという時期に、1975年の正月映画をそこから0から作れるわけはなく、本作は元々は『日本仁義』というタイトルで[4]、『山口組三代目・激突篇』よりも前から高倉健が製作を希望していた映画だった[4]。『山口組三代目・激突篇』で組まれていた豪華なキャストは[11]、そのまま本作にスライドした[1]。『山口組三代目・激突篇』が製作されていたら、高倉健が田岡一雄を、渡瀬恒彦地道行雄待田京介吉川勇次を続けて演じる予定だったものと見られる。

東映は1966年から1970年代までは正月枠は、基本的に年末から一月中旬くらいまでを正月前半、一月中旬から以降を後半とし、各二週間づつ、正月前半、後半としていたが、前半が勿論正月看板作品となるため、1974年秋の時点では、1975年正月前半に『日本仁義』、後半に『山口組三代目・激突篇』を構想していた[4]。一時期は両方とも製作予定があった[4]

1974年9月30日にあった岡田東映社長と業界記者団との懇談会で、岡田が「1975年の正月映画は最終決定に至っていないが、高倉健の『日本仁義』でアメリカ製の『ザ・ヤクザ』を決定してみる考えでいる。それと『ドキュメント山口組』(製作されず)。オールアクションの東映で勝負するつもりだ」と話し[14]、東映企画製作部長・登石雋一も同じ9月に映画誌のインタビューで「正月はジャンルとしては任侠もののジャンルで二週いきたい。それに空手のアクションをつけていきたいと考えております。何をやるかについては、色々難しい問題がありまして、今のところちょっと申し上げられないですけど、過去の任侠路線でのヒット路線の延長という形といえば大体ご推察がつくと思います」などと話し[15]、本作と『山口組三代目・激突篇』をそれぞれ正月前半・後半のA面番組に予定していると文献に書かれている[14]

しかし1974年10月頃になって岡田社長が[4]『日本仁義』を引っ込め菅原文太主演の『新仁義なき戦い』を正月前半のA面番組に変更した[4]。登石は『新仁義なき戦い』は、1975年正月には間に合わないと話していたが、これも1975年正月映画の前半に急遽繰り上げられた(新仁義なき戦い#製作決定に至るまで)。岡田社長が『日本仁義』を一旦引っ込めた理由は、高倉健は勝プロで撮った『無宿』の撮影後、いつもの放浪癖で渡米し年内は帰国しないといわれたこと[4]、高倉のギャラが一本700万円で[4]、一本300万円の菅原文太の方が興行成績がよいなどの判断があり[4]、岡田社長が『日本仁義』を一旦中止したことで、高倉は東映が自分を必要としないことを感じ、今後は三船敏郎のように外国映画を中心に出演したいと考えていたといわれる[4]。そのため高倉は同じ1975年の正月映画になった『ザ・ヤクザ』をヒットさせなければならなかった[4]

東映の正月前半は9年間高倉が務めていたが[4]、この決定により菅原が初めて東映の正月前半の顔を務めることになった[4]

1975年の東映正月興行は、前半が『新仁義なき戦い』『直撃地獄拳 大逆転』(1974年12月28日~1月14日)、後半が『山口組三代目』シリーズ3作目『山口組三代目・激突篇』『ザ・カラテ3 電光石火』(1975年1月15日~1月28日)の各二週間の興行を予定していたが、『山口組三代目・激突篇』が製作中止になったことで『日本仁義』が『日本任侠道』とタイトルを変え、"激突篇"というサブタイトルが『日本任侠道』に流用された[9]。『日本任侠道 激突篇』とタイトルを変え、1974年12月9日クランクイン、1974年12月末クランクアップ、1975年1月初旬完成、1975年1月15日封切と発表された[6]

キャスティング

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ヤクザ映画のイメージからは遠い竹下景子は本作が映画デビュー作[16]。2022年今日まで唯一出演したヤクザ映画となる。

興行成績

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急な製作ということもあって高倉健の着流しものという本格的な任侠映画というパブリシティ展開で押し通したが[17]、着流しムードそのものが全く受け入れられなかった[17]。1975年の正月興行は『エアポート'75』や『007/黄金銃を持つ男』『エマニエル夫人』など、洋画も強力ではあったが[17]、岡田東映社長は「『山口組三代目・激突篇』なら13億円の配収を目論んでいた[17]。しかしこの目算は大きく狂い、松竹男はつらいよ 寅次郎子守唄』『ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!』の二本立てロングランと同じ期間上映した東映の四本が同程度の配収で、つまり松竹の二本分は東映の四本分という製作費で考えれば非常に効率の悪い結果となった[17]。岡田社長は1975年2月19日東映本社での記者会見でも「企画の古さもあって失敗、3億円ほどスッた。しかし洋画部の『ドラゴンへの道』がバカ当たりし、と言ってもミスター・レイモンド(レイモンド・チョウ)に(儲けが)いってしまうわけだがまあまあカバーした」と話した[17]。映画関係者は「今年の正月興行の結果から判断すると今年(1975年)は『ゴッドファーザー PART II』に『タワーリング・インフェルノ』も控えているし、邦画洋画にリードされる可能性がある」と年始めに予想したが[17]、その通りとなり、史上初めて洋画が興行成績で邦画を上回り、映画界にとって大きな分岐点となった。

同時上映

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 「映画界重要日誌/映画興行界動向/製作配給界(邦画)」『映画年鑑 1976年版(映画産業団体連合会協賛)』1975年12月1日発行、時事映画通信社、9、55、99–100頁。 
  2. ^ “『任侠道 激突篇』”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 7. (1974年12月7日) 
  3. ^ 「〈ニュースメーカーズ〉 山口組シリーズはひっこめたが東映・岡田社長の『ヤクザはメシのタネ論』」『週刊ポスト』1974年12月13号、小学館、50頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「〈ルック 映画〉 『高倉健"V12"ならざるの本当の事情』」『週刊現代』1974年11月14日号、講談社、35頁。 
  5. ^ 「『東映と山口組 16億円の蜜月関係』」『週刊文春』1974年12月16日号、文藝春秋、19頁。 
  6. ^ a b c 「東映『日本任侠道激突篇』と決る」『映画時報』1974年12月号、映画時報社、19頁。 
  7. ^ 「東映岡田社長、六月以降の制作企画作品発表/映画界東西南北談議 映画復興の二年目は厳しい年 新しい映画作りを中心に各社を展望」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、19、33 – 34頁。 
  8. ^ 東映任侠映画の中核を担った男 山下耕作ノ世界 | 作品解説3 ラピュタ阿佐ヶ谷
  9. ^ a b c 滅びの美学 任侠映画の世界”. シネマヴェーラ渋谷. 2020年5月16日閲覧。
  10. ^ 日本任侠道 激突篇”. 日本映画製作者連盟. 2020年5月16日閲覧。
  11. ^ a b 日本任侠道 激突篇 | 東映ビデオ株式会社
  12. ^ 日本任侠道・激突篇 -ぴあ
  13. ^ 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】実録編(下) 前代未聞の東映本社ガサ入れ 組への資金流出疑い (1/2ページ)高倉健主演任侠映画 次回作妨害のためPが22件の容疑で逮捕
  14. ^ a b 「東映、八月期は170億円突破 正月は『日本仁義』と『―山口組』」『映画時報』1974年10月号、映画時報社、19頁。 
  15. ^ 登石雋一(東映取締役・企画製作部長)・鈴木常承(東映営業部長・洋画部長)・畑種治郎(東映興行部長)・池田静雄 (取締役宣伝部長)、司会・北浦馨「正月興行に全力投球・あゝ決戦東映陣 正月は得意の実録路線の大作で勝負」『映画時報』1974年10月号、映画時報社、4–5頁。 
  16. ^ 時事用語事典 > イミダス編 話題の人 >竹下景子 愛知万博の日本館総館長”. 集英社. 2020年5月16日閲覧。
  17. ^ a b c d e f g 登石雋一(東映取締役・企画製作部長)・鈴木常承(東映営業部長・洋画部長)・畑種治郎(東映興行部長)・池田静雄(東映取締役・宣伝部長)、司会・北浦馨「収益増大を計る東映'75作戦のすべて 企画・製作は新兵器の発見 営業・興行は直営120館獲得へ」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、12-13頁。 

外部リンク

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