山背部小田
山背部 小田(やましろべ の おだ[1])は、飛鳥時代の人物。氏は山代(やましろ)とも書く。冠位は勤大弐、贈直広肆。
時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文武天皇2年(698年)12月 |
別名 | 氏:山代 |
官位 | 勤大弐、贈直広肆 |
主君 | 天武天皇→持統天皇 |
出自 編集
経歴 編集
壬申の乱を起こした大海人皇子は、6月26日までに美濃国と伊勢国が味方についたことを知った。そこで伊勢国朝明郡の郡衙から、さらに東海(東海道)と東山(東山道)の軍を発するための使者を遣わした。山背部小田と安斗阿加布が東海への使者になった。彼等は無事に任務を果たしたらしい。
『続日本紀』文武天皇2年(698年)12月30日に、勤大弐の山代小田に直広肆の位を贈ったとする記事がある。『日本書紀』と『続日本紀』で、このような位階贈与記事は、壬申の功臣の死亡時に設けられる。山代小田は山背部小田と同一人物で、この日かその少し前に死んだと推測できる。