多変数の微分(たへんすうのびぶん)[1][2][3][4]は、多変数関数を、局所的に線形写像ヤコビ行列)で近似する手法である。本記事では、多変数微分の理論的な側面について解説する。

数ベクトル空間についての補足 編集

数ベクトル空間 編集

n 次元実数ベクトル空間   とは、集合としては

         (1-2)

である。つまり n 個の実数   を用いて

   (1-3)

の形で表せるもの全てを集めてきたものである。 特に、以下で定まる   を、第 i 標準ベクトルという。

     (1-8)

である。

標準座標系 編集

次に  ,   の標準座標系を定義する。  に対し、

     (1-6)

とし、これを   の第 j 座標関数という。ここで  内積を表す。つまり、

     (1-7)

である。   標準座標系とは、  の組   のことである[4]。当然、

     (1-9)

が成立する。  にも、同様に、  や、標準座標系   が定まっている。

さて、次節にて、多変数ベクトル値関数を考えるが、定義域側 ( ) の標準座標系を   と表記し、値域側 ( ) の標準座標系も   と表記していては紛らわしいので、  の標準座標系を  と書くことにする。つまり、

     (1-10)

とする。[注 1] 以降、「  に、標準座標系   が定まっているとする」と宣言した場合には、式 (1-10) のように考えることにする。

多変数ベクトル値関数 編集

 標準座標系   が定まっているとし、 標準座標系  が定まっているとする。

   の部分集合とし、

     (1-1)

を、  上で定義された   に値を取る多変数ベクトル値関数という。

以降    の第 i 成分を表す。  は以下の性質を満たす。

     (1-11)
 

偏微分 編集

設定 編集

  に、標準座標系   が定まっているとし、  に、標準座標系   が定まっているとする。   を、 開集合とし、

     (1-1)

を、  上で定義された   に値を取る多変数ベクトル値関数とする。 ここで    の第 i 成分を表す。

偏微分の定義 編集

   内の点とし、   のベクトルとする(   でなければならないが   であってよい)。

 ,   は固定されているものとする。

このとき、    について偏微分可能であるとは、以下の極限値

     (1-4)

が存在することを意味する。

このとき   における、  について偏微分商、   を、以下のように定義する[注 2]

    (1-5)

成分関数の微分可能性 編集

  の第 i 成分   は以下の等式を満たす。

     (1-11)

上式において   は内積を意味する。

式 (1-10), (1-11) を用いて、  を((1-5) の定義式通りに)   について偏微分することを考える。     について偏微分可能ならば、    について偏微分可能で、

     (1-12)

が成立する。

逆に、式(1-1)より、

     (1-13)

なので、  すべてが    について偏微分可能であれば、  も微分可能で、

   (1-14)

が成立する。これは式 (1-13) の両辺に、式 (1-5) の右辺の極限をとれば証明できる。

一変数関数の微分への帰着 編集

(1-6) の各成分、つまり   は、それぞれ、(1-15) に示す t についての一変数スカラー値関数

       (1-15)

を、t = 0 において(一変数スカラー値意味で)微分したものである。つまり、

       (1-16)

である。但し、  は、

   (1-17)

で定まる   の直線である。 また、後述の合成写像の微分法則 (3-7) を用いると (1-16) の計算はさらにすすめられる。この結果は第三節で後述する。

記号「∂f/∂xj」について 編集

  の点   における「( の) ベクトル  」に対する偏微分商、即ち   を、   と書く。 即ち、

  (1-18)

と表記する。

また、  の第 i 成分、つまり   の点   における「(  の)ベクトル  」に対する偏微分商   を、  と表記する。

ここで、  は、それぞれ   標準基底であり、  は、第 j 標準ベクトルを意味する。

ヤコビ行列の導入 編集

   において、  全てに対して偏微分可能であるとき、

     (1-20)

   におけるヤコビ行列という。

微分 編集

設定 編集

   の開集合とし、

     (2-1)

を、  上で定義された   に値を取る多変数ベクトル値関数とする。

微分の定義 編集

   内の点とする(つまり  )。このとき、   で微分可能であるとは、

     (2-2)

を充たす   行列   が存在することを意味する。この   を、   における微分という。

  とおくと、次のようにも表せる。

 

微分の一意性 編集

   で微分可能であるとき、(2-2) を満たす   行列はひとつしか存在しない。つまり、  行列   が、

     (2-3)

を満たすとすると、

     (2-4)

が成立する。

微分可能性と偏微分可能性 編集

   で微分可能であるとき、   で任意のベクトル   に対して偏微分可能である。実際、

   (2-5)

ここで、

     (2-6)

は、(2-2) に   を代入したに過ぎないため(従って (2-2) の特別な場合に過ぎない)、(2-5) の両辺の   極限は 0 となる。従って、

     (2-7)

となる。以上より    で微分可能であるとき、    の任意のベクトル   に対して偏微分可能であることが示された。

式 (1-5), (2-6) から、   で微分可能ならば

     (2-8)

であることが分かる。

ヤコビ行列の導入 編集

式 (1-2-8) に   を代入すると、

     (2-9)

である。従って    での微分   の第 j 列は、

     (2-10)

i , j 成分は

     (2-11)

となる。従って、

     (2-12)

となる。

誤差項の導入 編集

「誤差項」の導入を行う。    に対し、   における誤差項(ランダウの記号 

     (2-13)

によって定める。

     (2-14)

     (2-15)

であることが分かる。

(2-14) は、以下の恒等式

     (2-16)

   を代入すれば直ちに得られる。 (2-16) の恒等式ことを、本記事では   の点   における一次展開ということにする。 (2-15) 式は、(2-2) 式に (2-13) 式を代入したに過ぎないが、  が一次の微小量であることを意味しており、思想的には重要である。

(2-16) 式と (2-13) 式を見比べると、ヤコビ行列は   の一次近似を表していると見ることができる。 つまり、点   の近傍で  

     (2-17)

とみなせることが分かる。

微分に関するいくつかの公式 編集

偏微分の「方向」に関する公式 編集

式 (2-8) から、   で微分可能であるとき、   において   の任意のベクトル  ,   と、任意の実数   に対して、

     (3-1)

が成立することが分かる。実際 (2-8) および行列の積の線型性から、

                                     (3-2)

である。

また、(2-8) から、   で微分可能であるとき、    の任意のベクトル   に対して、

                                     (3-3)

が、成立することがわかる。式 (3-2), (3-3) は、ヤコビ行列の幾何学的な意味を表している。

アフィン写像の微分 編集

次に、アフィン写像の微分について説明する。アフィン写像とは、適当な m×n 行列 A と、n 次元代数数ベクトル b を用いて

   (3-4)

の形で具体的な数式として書ける、 から への写像のことである。(3-4)のアフィン写像は、任意の点( の点) で微分可能で、任意の点( の点) において、

   (3-5)

である。逆に、任意の点 において  (3-5)を充たす写像があったとすれば、それはアフィン写像である。

合成写像の微分 編集

次に、合成写像の微分について説明する。  の開集合とし、 は、 の値域を含む(つまり、 、特に とする)とする。多変数ベクトル値関数      (3-6)

は、 で定義され、 に値をとるとする。このとき、  との合成写像 は、 で定義され、 に値をとる多変数ベクトル値関数である。

 が点 で微分可能で、 が、点 で微分可能であるとき、  で微分可能で、

 =      (3-7)

ここで“ ”とは、行列としての積である。

■証明
 を点 で一次展開し、  を点 で(2-16)同様に一次展開すると、

      (3-8)

      (3-9)

となるので、

     

 

 

  

        (3-10)

である。従って

     (3-11)

を示すを示せば終証である。

以下(3-11)を示す。

          (3-12)

より、       (3-13)

一方、

 =     (3-14)

は、

     (3-15)

の特殊なケースに過ぎないので、

     (3-16)

さらに、

     (3-17)

は有限の値であることから、

     (3-18)

また、

    (3-19)

は、

       (3-20)

であることと、線形写像の連続性から明らかである。

(3-7)を行列として具体的に表記すると

 =   (3-21)

となる。これから、

 (3-22)

が分かる。

合成写像の偏微分 編集

次に(3-7)の合成写像の微分法を用いて、(1-8)式の計算をさらにすすめる。(1-8)式のうち、本議論に用いるものを(3-23)にて再掲する。

         (3-23)

(3-23)式の右辺に式(3-21)を適用すると、

          (3-24)

以上より、

        (3-25)

逆写像の微分 編集

次に、(弱いほうの)逆写像定理(逆関数定理)を示す。  の開集合とし、 は、 の値域を含む(つまり、 、特に とする)とする。多変数ベクトル値関数

  (3-26)

は、 で定義され、 に値をとるとする。さらに、  の逆写像、つまり

   (3-27)

とする。このとき、

  (3-28)

が成立する。標語的にいえば、「逆写像のヤコビ行列は、元の写像の逆行列」である。 これは、(3-7)の特殊な例に過ぎない。

導関数の導入 編集

これまでの議論では、一点 を固定して、この点での微分可能性について議論してきた。本節では、領域全体での微分可能性について説明し、導関数[3]を定義する。

 を、 開集合とし、

     (4-1)

を、 上で定義され、 に値を取る多変数ベクトル値関数とする。

 を、 の固定されたベクトルとする。( でもよい。)このとき、「  で、 について偏微分可能である」とは 内の全ての点において、(4-1)の意味で  について偏微分可能であることを意味する。このとき「  についての偏導関数 」とは、「 の点  における偏微分商 を対応させる多変数ベクトル値関数」のことである。つまり、

       (4-2)

である。特に

      (4-3)

とする。

  で、微分可能である」とは、「 内の全ての点において、(2-2)の意味で が微分可能」であることを意味する。

このとき「  における導関数 」とは、「 の点  における微分 を対応させる行列値の関数」である[3]。つまり、

      (4-4)

である[3] のことを や、 と書くこともある。 尚、「dfとヤコビ行列」で後述するように、 は、文脈によっては、(4-4)と同じ意味で使われる場合がある。

また、(4-5)から、直ちに「  で、微分可能」ならば、「  で、任意の について偏微分可能」である。しかし、この逆は成り立たない。つまり、「  で、任意の について偏微分可能」であっても、「  で、微分可能」とは限らない。

  で、連続微分可能である」とは、「  で、 全てについて偏微分可能であり、かつ についての偏導関数がすべて で、連続であること」を意味する。

一見、連続微分可能性は、全微分可能性よりも弱い性質のように見えるが、実は連続微分可能性のほうが強い条件である。つまり「  で、連続微分可能」ならば「  で、微分可能」であるものの、「  で、微分可能」であっても、「  で、連続微分可能」とは限らない。

但し、「  で微分可能であり、導関数が で、連続」ならば、「  で、連続微分可能」である。

全微分 編集

   座標系が定まっているとする。 式 (1-14) の   は全て   から   への線形写像であり、従って式 (3-5) と同様の方法で微分可能で、恒等的に

     (5-1)

である。ここで   は転置を意味する。すなわち   とは、第 i 成分のみが 1 で、それ以外が 0 の 1 行 n 列の行列(横ベクトル)である。

式 (4-4) より   は、

      (5-2)

で定まる行列値関数であるため、

     (5-3)

であり、

     (5-4)

がわかる。ここで、     と書くと、

     (5-5)

となる。式 (5-5) において、変数を省略すると、

     (5-6)

となる。

微分の“逆問題” 編集

スカラーポテンシャルの定義 編集

 を、 開集合とし、

   (6-1-1)

を、 上で定義された1行n列の行列値関数とする。行列値関数とは、 各成分が関数である行列のことを意味する。

式(6-1-1)の に対し、

   (6-1-2)

を充たす、一変数スカラー値関数 を求める問題を考える。(6-1-2)の条件をみたす一変数スカラー値関数のことを、 のスカラーポテンシャルという。

以下、1行n列の行列値関数 があたえられたとき、 のスカラーポテンシャルが存在する条件を調べ、スカラーポテンシャルの構成方法(所謂ポアンカレの補助定理)について述べる[注 3]

偏導関数に関する「微積分学の基本定理」 編集

 を、 開集合とし、  上で定義された多変数スカラー値関数とする。

 を、 内の点とする。(つまり、  を、 のベクトルとする。( でもよい。) このとき、

 =   (6-2-1)

が成立する。但し、 を充たす全ての に対して、    (6-2-2) が成り立っているものとする。

以下、(6-2-1)を示す。まず、

       (6-2-3)

で、         (6-2-4) である。但し、 は、(1-9)同様、

   (6-2-5)

である。

(6-2-4)の右辺を、sについて(一変数関数の意味で)積分すると、

 =    (6-2-5)

従って、(6-2-1)が分かる。

ポアンカレの補助定理の準備 編集

(6-1-1)の に対し、作用積分 を定義する。

   (6-3-1)

 の点とする。また、 を、 開集合とし、さらに  を中心に星型とする。

  を中心に星型とは、任意の の点 と、任意の に対し、

   (6-3-2)

であることを意味する。

 は固定されているものとする。また、

    (6-3-3)

も固定されていると考える。

式(6-1-1)の、 上で定義された1行n列の行列値関数 に対し、 

 =   (6-3-4 )

と定義する。(6-3-4)の右辺の被積分関数

   (6-3-5)

は、 についての一変数スカラー値関数である。そして、右辺の積分は、(6-3-5)の「sについての一変数スカラー値関数」を(一変数関数の意味で)定積分したものである。また、  を、点 と、 実数 を対応させる多変数スカラー値関数

    (6-3-6)

とする。以降、点 は、変数とみなす。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 本記事では、「  の第 i 標準座標系」は、 (x を文中イタリック)、「  の第 i 成分」は  (x を通常表記)で書き分けている。
  2. ^ Spivak岩堀に後述の 方向以外の偏微分に関する記載がある。Spivak では   という記号をあてている。本記事の記号は岩堀に合わせた。理由は、「偏微分」を表す記号は   のほうがしっくりときそうだからである。
  3. ^ 正確にはポアンカレの補助定理(ポアンカレの補題)の微分一形式版と等価な命題を述べる。「補助定理」、「補題」の名とは裏腹に、ポアンカレの補助定理は、本節の最終目標である。ポアンカレの補助定理の証明には、ストークスの定理が補題として必要としている本もあるが、積分経路自体の取り方が、各点ごとに決まっている本記事の流儀では、ストークスの定理は不要である。積分に関して必要な予備知識は、一変数関数の積分(数Ⅲ程度)に限られる。

引用 編集

参考文献 編集

  • Michael Spivak『多変数の解析学―古典理論への現代的アプローチ』齋藤 正彦 (訳)(新装版)、東京図書、2007年4月。 
  • 岩堀 長慶, 他『微分積分学』裳華房、1993年。 
  • 島 和久『多変数の微分積分学』近代科学社、1991年9月。 
  • Frank W. Warner (2010). Foundations of Differentiable Manifolds and Lie Groups. Graduate Texts in Mathematics. Springer New York