匝瑳 末守(そうさ の すえもり)は、平安時代初期の豪族のち宿禰。鎮守将軍・物部匝瑳熊猪の子か。官位従五位下安房守

 
匝瑳末守
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位下安房守
主君 仁明天皇
氏族 物部宿禰
父母 父:物部匝瑳熊猪[1]
テンプレートを表示

経歴

編集

仁明朝初頭の承和2年(835年物部匝瑳熊猪姓から宿禰姓に改姓しており[2]、末守も同時に改姓したか。その後、承和4年(837年)までに物部匝瑳宿禰姓から匝瑳宿禰姓に改姓したらしく、同年以降の『続日本後紀』において末守は全て匝瑳宿禰姓となっている。

承和4年(837年鎮守将軍官職にあったが、前年の春より百姓が妖言を発して騒擾が止まず、奥地の民衆が住居を捨てて逃亡しており、特に栗原賀美両郡の百姓に逃出する者が多いことをあげ、陸奥出羽按察使坂上浄野に政情不安を報告する。これを受けて、坂上浄野は異変に備えるために援兵1000人の動員を朝廷に対して上奏し、許されている[3]

その後も、陸奥守良岑木蓮と共に、奥地の民を鎮めるため承和6年(839年)1000人[4]、承和7年(840年)2000人の援兵を徴発している[5]。なお、承和7年(840年)の記事では末守の官職は前鎮守将軍とあることから、この頃迄に鎮守将軍を辞したものと推測される。その後、承和10年(843年安房守に任ぜられている。

官歴

編集

続日本後紀』による。

脚注

編集
  1. ^ 太田[1963: 2678]
  2. ^ 『続日本後紀』承和2年3月16日条
  3. ^ 『続日本後紀』承和4年4月21日条
  4. ^ 『続日本後紀』承和6年4月20日条
  5. ^ 『続日本後紀』承和7年3月26日条

参考文献

編集