井上政重
井上 政重(いのうえ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。江戸幕府宗門改役。下総国高岡藩初代藩主。高岡藩井上家初代。号は幽山。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 天正13年(1585年) |
死没 | 万治4年2月27日(1661年3月27日) |
別名 | 清兵衛、井上正重 |
戒名 | 幽山日性玄高院 |
墓所 | 東京都文京区向丘の浄心寺(染井霊園に改葬) |
官位 | 従五位下・筑後守 |
幕府 | 江戸幕府宗門改役 |
藩 | 下総国高岡藩主 |
氏族 | 井上氏 |
父母 | 父:井上清秀、母:永田氏 |
兄弟 | 重成、正友、正就、政重 |
妻 | 太田重正の娘 |
子 | 政次 |
経歴
編集天正13年(1585年)徳川家康の家臣、井上清秀の四男として遠江国で生まれる。
寛永4年(1627年)12月29日、従五位下・筑後守に叙任。
寛永9年(1632年)12月17日、江戸幕府の大目付(当時は惣目付という名称)となる。宗門改役に任ぜられ、幕府のキリシタン禁令政策の中心人物となった。井上の下屋敷が文京区小日向にあり、キリシタンを幽閉する施設(切支丹屋敷)として使用されていた。脇に切支丹坂という坂が残っている。
寛永15年(1638年)、島原の乱に上使として九州に赴いた。
寛永17年(1640年)6月12日、1万石を領し大名に列し下総国高岡藩の藩祖となる。
寛永20年(1643年)5月23日、3千石を加増される。
寛永20年(1643年)5月、筑前国で捕らえられたジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)が同年7月に江戸へ移送され、政重の小日向の下屋敷に預けられて取り調べを受けた。
同年、ブレスケンス号事件が発生したことを受け、1650年に、バタヴィア側は信任状のない特使を送る事になる。この特使に対して惣目付の井上が対応した。紅毛流測量術はこの際に伝えられたとされている[1]。
正保元年(1644年)12月16日、大目付として宮城和甫と共に、諸大名に正保国絵図・正保郷帳の作成を命じた。
万治3年(1660年)7月9日、嫡男の政次は早世したため、政次の嫡男である政清に家督を譲って隠居し、幽山と号した。
万治4年(1661年)2月27日、文京区小日向の下屋敷にて死去。享年77。墓地は文京区向丘の浄心寺であったが、後に染井霊園に改葬された。
後世の評価
編集アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンは、井上をアドルフ・アイヒマンと比較した[2][3]。
系譜
編集父母
- 井上清秀(父)
- 永田氏(母)
正室
- 太田重正の娘
子女
- 井上政次(長男)
出典
編集- ^ 小曽根淳「紅毛流として伝来した測量術について(I) (数学史の研究)」『数理解析研究所講究録』第1787巻、京都大学数理解析研究所、2012年4月、127-137頁、CRID 1050845760697354752、hdl:2433/172777、ISSN 1880-2818。
- ^ George Elison, Deus Destroyed, The Image of Christianity in Early Modern Japan, Harvard University Press, 1973, p. 208.
- ^ José Miguel Pinto dos Santos, THE “KURODA PLOT” AND THE LEGACY OF JESUIT SCIENTIFIC INFLUENCE IN SEVENTEENTH CENTURY JAPAN, Bulletin of Portuguese /Japanese Studies, 2005 june-december, número 10-11 Universidade Nova de Lisboa Lisboa, Portugal, p. 134
関連項目
編集- 沈黙 (遠藤周作) - 幕府大目付・宗門改役、井上筑後守として登場。
- 沈黙 -サイレンス- -イッセー尾形が演じる。長崎奉行、井上筑後守として登場。