三木近綱
三木 近綱(みつき ちかつな、天正2年(1574年) - 寛永6年5月20日(1629年7月10日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、江戸幕府旗本。姉小路頼綱の末子[1]。母は斎藤道三の娘、室は石崎左平太の娘。子に森自直(叔父森自綱養子)、三木春綱。「近」の字は、金森長近からの偏諱と思われる[2]。近衛家と斎藤道三血筋の斎藤家親族でもある。
経歴 編集
羽柴秀吉の家臣.金森長近によって姉小路氏は滅ぼされたが、近綱は父が秀吉に対抗するため連携していた美濃国の遠藤慶隆の元に人質に送られていたために生きながらえた。その後、近衛家や慶隆と向宣政の保護を受けながら隠棲した父・姉小路頼綱と母[3]と共に京に滞在して姉小路氏(三木氏)再興の機を窺った。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の時に徳川家康に引見し、御書院番に命じられる。
翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で水野忠清に属して従軍。旧暦5月7日、天王寺.岡山の戦いにおいて形原松平氏の松平正勝(助十郎)、別所主水(別所宗治。別所重宗の子)ら旗本勢と敵陣に馬で突入した。正勝らは討死し、近綱は敵中に孤立する中で一人槍を振るって奮戦し、味方の救援の到着まで持ちこたえた。
近綱はこのことを公言しなかったが、これを慶隆から水野忠清を経て江戸幕府2代将軍.徳川秀忠に伝わり、その勇気を評され下総国香取郡内500石に取り立てられた[4]。