フェルディナント・ボナフェントゥラ・キンスキー

フェルディナント・ボナフェントゥラ・フュルスト(侯爵)・キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウFerdinand Bonaventura Fürst Kinsky von Wchinitz und Tettau, 1834年10月22日 - 1904年1月2日)は、オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミアの上級貴族キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウ侯爵家の第7代当主。全名はフェルディナント・ボナフェントゥラ・クリスティアン・ヨーゼフ・ヒエロニムス・ルドルフ・ラファエル(Ferdinand Bonaventura Christian Josef Hieronymus Rudolf Rafael)。

フェルディナント・ボナフェントゥラ・キンスキー
Ferdinand Bonaventura Kinsky
第7代キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウ侯
キンスキー侯フェルディナント・ボナフェントゥラ、ヨーゼフ・クリーフーバー画、1846年
在位 1836年 - 1904年

出生 (1834-10-22) 1834年10月22日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
死去 (1904-01-02) 1904年1月2日(69歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ヘルシマヌーフ・ムニェステツ
配偶者 マリー・フォン・リヒテンシュタイン
家名 キンスキー家
父親 キンスキー侯ルドルフ
母親 ヴィルヘルミーネ・フォン・コロレード=マンスフェルト
テンプレートを表示

生涯

編集

キンスキー侯ルドルフとその妻のコロレード=マンスフェルト伯爵夫人ヴィルヘルミーネ(1804年 - 1871年)の間の長男として生まれ、わずか2歳でキンスキー侯爵家の家督を継ぎ、1855年から亡くなるまでホツェン(現在のチェコパルドゥビツェ州ホツェニ)の城主であった。名騎手として知られ、オーストリア皇后エリーザベトの乗馬仲間の1人だった。1904年に落馬事故により死去した。

1856年4月5日にウィーンにおいて、リヒテンシュタイン家の侯女マリー(1835年 - 1906年)と結婚し、間に7人の子女をもうけた。

参考文献

編集
  • Eintrag in Constantin von Wurzbach: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich, Bd. 11, Wien 1864, S. 302f.