クリスティアン・ヴェルナー

クリスティアン・ヴェルナー(Christian Werner、1892年5月19日 - 1932年6月17日)は、1920年代のドイツのレーシングドライバーである。ダイムラー社英語版(Daimler Motoren Gesellschaft、DMG)、ダイムラー・ベンツ社のワークスドライバーとして知られる。

クリスティアン・ヴェルナー
Christian Werner
ヴェルナー(1922年タルガ・フローリオ)
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ帝国ドイツの旗 ドイツ国
生年月日 (1892-05-19) 1892年5月19日
出身地 ドイツの旗 ドイツ帝国 シュトゥットガルト
死没日 (1932-06-17) 1932年6月17日(40歳没)
死没地 ドイツの旗 ドイツ国 シュトゥットガルト カンシュタット英語版

経歴 編集

1911年12月15日にダイムラー社に整備士兼運転手として働き始める[W 1]。その後、最終検査部門でマスタードライバーに認定された[W 1]

レーシングドライバー 編集

第一次世界大戦後の1920年代になって同社のワークスドライバーとしてレースに参戦するようになる[W 1]

 
1922年タルガ・フローリオでメルセデスを駆るヴェルナー。

1922年タルガ・フローリオドイツ語版の頃にはメルセデスチームのエースと目され[1]、このレースではスーパーチャージャーを搭載したメルセデスを駆って8位でチェッカーを受けた[2]。1923年にはインディ500英語版にも参戦して、完走を果たす[3]

 
1924年タルガ・フローリオ優勝車

インディ500で使用した車両は翌1924年のタルガ・フローリオドイツ語版でも使用されることになり、同時に開催されたコッパ・フローリオとともに、ヴェルナーは両レースで優勝した[1][4]。この「完全勝利」はダイムラーにとって「敵地」であるイタリアで挙げたものであり、同社にとって大きな勝利となる。

この時期にダイムラーに入社した新人ルドルフ・カラツィオラがレースチームへの加入を希望し、ヴェルナーはそのトライアルとなる走行の監督を務め、結果、その走りを高く評価した[5]1928年のドイツグランプリドイツ語版ニュルブルクリンク)では、そのカラツィオラとメルセデス・ベンツ・SS(W06)のステアリングを共有し、優勝する[5]

青いオーバーオールを着た背の高いやせた男が現われた。ヴェルナー氏であった。(中略)彼の長い悲しそうな顔には大きな鼻とくぼんだ目がついており、決して笑うことがないような印象をうけた。[5]

—ルドルフ・カラツィオラ(1923年6月)[注釈 1]

ヴェルナーはヒルクライムレースでも活躍し、1925年に開催された第1回フライブルク-シャウインスラントヒルクライムレース英語版(1984年まで続く伝統のレースとなる)で優勝し、1927年までに3連覇を果たした[1]

1928年ドイツGP 編集

1928年ドイツグランプリドイツ語版の勝利もまた、ヴェルナーのレースでよく知られるもののひとつである。

ニュルブルクリンクで開催されたこのレースは事故による死亡者や負傷者が続出した激しいものとなった。ヴェルナーも顔にかかったオイルで目を傷めたことと、あまりにも固いステアリングによって肩を脱臼してしまったため、レース途中でピットインして自身の車をヴィリー・ウォルブに譲る事態となっていた[6]。ヴェルナーが肩の手当てをしていると、カラツィオラもピットインしてきて、カラツィオラは酷暑のレースで異常過熱したペダルによって足の裏をやけどしたことと、熱中症が疑われたことで一時離脱することを余儀なくされた[6][W 2]。ここで、チーム監督であるアルフレート・ノイバウアーが賞金を交渉材料としてヴェルナーを説き伏せ、ヴェルナーはカラツィオラの車を引き継いでレースに復帰することを承諾した[6]。負傷した肩を吊った状態のヴェルナーは怪我を負ったカラツィオラと交代しつつ走り切って優勝し[6][W 2]、このレースでメルセデスチームは表彰台を独占するとともに、1926年の第1回大会英語版からこの第3回大会まで、ドイツグランプリの3連覇を達成した[W 2][注釈 2]

死去 編集

1929年の世界恐慌の影響によりダイムラー・ベンツはレース活動を縮小していき、ヴェルナーには他社からの引き抜きの声がかかるようになった。しかし、ヴェルナーはそれらを断り同社に留まった。そんな折、1932年に喉頭癌により死去した[7]

レース戦績 編集

インディアナポリス500 編集

シャシー エンジン スタート フィニッシュ
1923年英語版 メルセデス メルセデス 15 11

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1930年   ルドルフ・カラツィオラ   ルドルフ・カラツィオラ メルセデス・ベンツ・SS 8.0 85 DNF DNF

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ そんな印象だったため、カラツィオラはワークスチーム加入のためのトライアルの結果について、ヴェルナーによる評価は悪いものだと考えていた(実際にはヴェルナーはカラツィオラが良い腕をしていたことを首脳陣に報告していた)[5]
  2. ^ なお、ヴェルナーの車を引き継いだウォルブは3位に入ったため、ヴェルナーはこのレースで1位と3位の両方の入賞者として名を残した[W 2]

出典 編集

出版物
  1. ^ a b c F.ポルシェ その生涯と作品(フランケンベルク/中原1972)、「VII タルガ・フローリオ クリスティアン・ヴェルナー」 pp.46–51
  2. ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.75
  3. ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.79
  4. ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.85
  5. ^ a b c d カラツィオラ自伝(高斎1969)、「4 ダイムラー・ベンツ入社」 pp.25–28
  6. ^ a b c d オートスポーツ 1966年5月号(No.10)、「レース史上に名をとどめる“タイガー”たち」(嵯峨彪) pp.100–102
  7. ^ MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「2 魔のニュルブルクリンク」 pp.18–24
ウェブサイト
  1. ^ a b c Werner, Christian” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
  2. ^ a b c d The Mercedes-Benz compressor cars of the S-Series” (英語). Mercedes-Benz Cars (2019年4月5日). 2023年6月28日閲覧。

参考資料 編集

書籍
  • Alfred Neubauer (1958). Männer, Frauen und Motoren. Hans Dulk. ASIN 3613033518 
    • アルフレート・ノイバウアー(著)、橋本茂春(訳)、1968、『スピードこそわが命』、荒地出版社 NDLJP:2518442 NCID BA88414205 ASIN B000JA4AOS
    • アルフレート・ノイバウアー(著)、橋本茂春(訳)、1991-03-03、『メルセデス・ベンツ ─Racing History─』、三樹書房 ISBN 4-89522-148-2 NCID BB04709123 ASIN 4895221482
  • Rudolf Caracciola (1958). Meine Welt. Limes Verlag 
    • ルドルフ・カラツィオラ(著)、高斎正(訳)、1969-12-10、『カラツィオラ自伝』、二玄社 ASIN 4544040086
  • Richard von Frankenberg (1960) (ドイツ語). Die ungewöhnliche Geschichte des Hauses Porsche. Motor-Presse-Verlag 
    • リヒャルト・フォン・フランケンベルク(著)、中原義浩(訳)、1972-11-25、『F.ポルシェ その生涯と作品』、二玄社 NCID BN13855936 ASIN B000JA1AQO
  • Karl Ludvigsen (1995-06). Mercedes-Benz Quicksilver Century. Transport Bookman Publications. ASIN 0851840515. ISBN 0-85184-051-5 
雑誌 / ムック
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582
    • 『1966年5月号(No.10)』三栄書房、1966年5月1日。ASB:AST19660501 

外部リンク 編集