クリスチャン・ホーナー

クリスチャン・ホーナー(Christian Horner、CBE, 1973年11月16日 - )は、イングランド出身の元レーシングドライバー。

クリスチャン・ホーナー
Christian Horner
東京のイギリス大使館にて(2013年10月)
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス
生年月日 (1973-11-16) 1973年11月16日(50歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド
ウォリックシャー州ロイヤル・レミントン・スパ
引退 1998年
親族 ギャリー・ホーナー(実父・アーデン・インターナショナル代表)
国際F3000での経歴
活動時期 1997年 - 1998年
所属 アーデン・レーシング
出走回数 22(内予選落ち8)
過去参加シリーズ
1994年 - 1995年
1996年
イギリスF3
イギリスF2
受賞
2013年
2024年
大英帝国勲章 OBE
大英帝国勲章 CBE

自動車競技フォーミュラシリーズの下位カテゴリーに参戦している「アーデン・インターナショナル」の創設者。2005年からF1チーム「レッドブル・レーシング」の代表を務めている。

妻はジェリ・ハリウェル

経歴 編集

レーシングドライバー時代 編集

 
ホーナーが駆るADRF3マシン。
1995年シルバーストン

1993年からイギリス・フォーミュラ3選手権に参戦を開始し、1994年にフォルテックへチーム移籍。1995年に名門アラン・ドッキング・レーシング英語版に移籍するも最高成績は9位とポイント獲得は成らず、同年途中からトムスGBに移籍し、同チームで1996年終了までイギリスF3に参戦。計4シーズン参戦したF3での最高成績は2度の6位だった。1996年にはF3と並行してマジウィック・モータースポーツのシートを得てF3000マシンを使用して行われているイギリスF2選手権でも走った。

しかし、シートを獲得できたイギリスF2選手権が1996年を最後に開催終了となったため、1997年からの国際F3000への参戦を目指し、23歳で自身をオーナードライバーとするアーデン・インターナショナルを設立し1台体制で参戦した。1998年に2台体制へと規模を拡大し、カート・モレケンスをパートナーとして起用して臨んだが、ホーナーは予選落ちを多く喫し、モレケンスが2度表彰台を獲得するなど結果に大きな差が出たこの年を最後に自身の能力に見切りをつけ、チーム運営に徹するべきだと判断しレーシングドライバーを引退した。

アーデン時代 編集

1999年、25歳のホーナーはチーム代表としての国際F3000への参戦を続け、この年はヴィクトル・マスロフマルク・ホーセンス、後年にダレン・マニングを擁して国際F3000を数シーズンを戦った。

当初なかなか好成績は出ず、F3000初優勝までは遠かったが、ドライバーをトーマス・エンゲビヨン・ビルドハイムに一新した2002年に状況が好転し、エンゲはポイントランキング1位でシーズンを終えた。しかし、エンゲがドーピング検査にひっかかり、シリーズランキング3位に降格となってしまいチャンピオンはスーパーノヴァ・レーシングセバスチャン・ボーデのものとなった。

2003年、ビルドハイムはアーデンに残留させたが、ドーピング違反によりチームに汚名を負わせたエンゲとは契約を更新せず、代わってタウンゼント・ベルを起用した。この年はビルドハイムが2位のリカルド・スペラフィコに35ポイントの大差をつけて、国際F3000シリーズチャンピオンを獲得した。

国際F3000最後の年となった2004年、アーデンが起用したヴィタントニオ・リウッツィがシーズンを牽引し、チームメイトのロバート・ドーンボスとあわせ、ドライバーズタイトルだけでなくチームとしての年間獲得ポイントでも圧勝を遂げた。

レッドブル 編集

それまでアーデンのスポンサーを務めていたレッドブルが、ジャガーチームを買収し新たに「レッドブル・レーシング」として2005年よりF1進出する計画が進められた。アーデンF3000でのホーナーのマネージメント手腕を見ていたレッドブルはその新チームの代表就任をホーナーに依頼し、就任することが決定。空いたアーデンの代表は父ギャリー・ホーナーが引き継ぐこととなった[1]

ホーナーは2021年に新設されたレッドブルのエンジン部署「レッドブル・パワートレインズ」のCEOにも就任し、チーム代表と兼任している[2]

エピソード・人物 編集

 
2010年カナダGPにて。チームブースで語り合うホーナー。
  • 国際中継でレッドブルのチーム首脳陣の司令塔が映し出されると、しばしばホーナーの足元にカメラが向けられる。その理由はホーナーの癖である「貧乏揺すり」が起因しており、特に同チームが絡む非常にエキサイティングなグランプリになると、その脚の動きも非常に活発になる。この話題は日本だけではなく世界的にもしばしば語られ、インターネット上の様々な箇所でホーナーの貧乏揺すりに対するコメントが見受けられる[3]。また、ホーナーがレッドブルのチーム代表を務めて最初のワールドチャンピオンドライバーとなったセバスチャン・ベッテルも、自身がチャンピオンを獲得したアブダビGPの映像を見直した際「最後15周、スタッフ達がすごく緊張してたり、ホーナーが貧乏揺すりをしていたりして、すごく変な感じだった。」と述べており、在籍するドライバーもホーナーに貧乏揺すりの癖があることを認めている[4]
  • 2006年モナコグランプリでは「表彰台を獲得したら、レッドブルのモーターホーム屋上にあるプールに全裸で飛び込む」と宣言。デビッド・クルサードが3位になったため、レース後チームスタッフの前で実行した。ただし、このレースのスポットスポンサーである映画『スーパーマン リターンズ』にちなんで、赤いマントを羽織っていた[5]
  • 2013年、大英帝国勲章第4位(OBE)を授与される[6]
  • 2014年、元スパイス・ガールズジェリ・ハリウェルとの婚約を発表[7]。2015年に結婚。
  • レッドブルチームのマシンデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイが、2014年にフェラーリから巨額のオファーを受けた際、これを悩んだ末に辞退したのは、ホーナーとの二人三脚で築き上げたチームであった事も理由の一つに挙げている[8]

レース戦歴 編集

イギリス・フォーミュラ3選手権 編集

エントラント シャーシ エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
1993年 P1エンジニアリング レイナード 923 無限・MF204 B SIL
10
THR
9
BRH
Ret
DON
8
BRH
DSQ
SIL2
Ret
OUL
14
DON
12
SIL
Ret
SNE
11
PEM
13
SIL5
8
SIL6
14
THR 2位 68
レイナード 933 A DON
11
NC 0
1994年 フォーテック ダラーラ F394 無限・MF204 A SIL
Ret
DON
14
BRH1
14
BRH2
Ret
SIL2
16
SIL3
14
BRH
11
THR
17
OUL
14
DON
13
SIL2
10
SNE
Ret
PEM1
6
PEM2
9
SIL4
18
SIL5
11
THR2
11
SIL6
11
17位 10
1995年 アラン・ドッキング・レーシング ダラーラ F395 無限・MF204 A SIL1
15
SIL2
17
THR1
9
THR2
12
DON
23
SIL3
17
SIL4
17
DON2
13
DON3 16位 14
トムスGB ダラーラ F395 トムス-トヨタ OUL
8
BRH1
13
BRH2
15
SNE
Ret
PEM1
6
PEM2
10
SIL5
13
SIL6
10
THR3
12
1996年 トムス 036F A SIL1
Ret
SIL2
24
THR1
16
DON
Ret
BRH1
16
BRH2
13
OUL DON2 SIL3 THR2 SNE PEM1 PEM2 ZAN1 ZAN2 SIL4 NC 0

イギリス・フォーミュラ2選手権 編集

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1996年 マジウィック・モータースポーツ レイナード 95D コスワース OUL SNE1 SNE2 SIL OUL
Ret
DON
4
BRH
3
SIL
3
BRH
5
DON
6
5位 14

国際F3000選手権 編集

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1997年 アーデン・インターナショナル ローラ・T96/50 ザイテック SIL
16
PAU
DNQ
HEL
DNQ
NÜR
DNQ
PER
DNQ
HOC
DNQ
A1R
16
SPA
DNQ
MUG
17
JER
6
21位 1
1998年 アーデン・レーシング / KTR OSC
Ret
IMO
12
CAT
Ret
SIL
Ret
MON
16
PAU
DNQ
A1R
17
HOC
18
HUN
Ret
SPA
DNQ
PER
17
NÜR
17
NC 0

脚注 編集