アレクサンドル・グレボヴィチ (ドゥブロヴィツァ公)

アレクサンドル・グレボヴィチ[1](あるいはフセヴォロドヴィチ)ロシア語: Александр Глебович、? - 1223年)は、13世紀前半の、トゥーロフ・イジャスラフ家(イジャスラフを祖とするトゥーロフ・ピンスク公位を継承した家系)出身のクニャージ(公)である。ドゥブロヴィツァ公(在位:1195年 - 1223年)。

アレクサンドル・グレボヴィチ
Александр Глебович
ドゥブロヴィツァ公
カルカのアレクサンドル・グレボヴィチ
在位 1195年 - 1223年

死去 1223年
子女 ゲオルギー
グレプ
家名 リューリク家
父親 ドゥブロヴィツァ公グレプ・ユーリエヴィチ?
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生涯 編集

アレクサンドルはドゥブロヴィツァ公グレプ・ユーリエヴィチの子か孫と考えられている。

1223年モンゴルのルーシ侵攻中の一戦闘であるカルカ河畔の戦いに参加し、カルカ川右岸の野営地において、親族の(おそらくトゥーロフ公アンドレイ、その義父のキエフ大公ムスチスラフらと共に捕虜となった。アレクサンドルらは酒宴を行うモンゴル帝国軍の座る板の下で圧死した。

子孫 編集

アレクサンドルの子と考えられる以下の人物がいる。

後のポーランド・リトアニア共和国ロシア帝国等の貴族の家系であるチェトヴェルティンスキー家(スヴャトポルク・チェトヴェルティンスキー家)(ru)はアレクサンドルに端を発するという説がある。

出典 編集

  1. ^ Войтович Л.3.5. ІЗЯСЛАВИЧІ. ТУРОВО-ПІНСЬКІ КНЯЗІ. ЧЕТВЕРТИНСЬКІ. СОКОЛЬСЬКІ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ

参考文献 編集

外部サイト 編集